逍遙から繁俊への「看護の歌」
「看護の芳情に感激して病間によみたりしを癒えて後再生の記念にと河竹ぬしに書きて贈る
今ただに死ぬをいとはぬをのこわれ人の誠におもほえず泣く
うれしみて涙ぐめるを病苦ゆえと死をいとふゆえとおぼほすな君
戌の年の秋はじめ せうえう(←逍遙)」
これは、逍遙の亡くなる前年の昭和9年夏に肺炎を患い、繁俊が看護したことに対して贈られた歌二首です。この時の看護について、『人間坪内逍遙』の中の「墨蹟のこと」で繁俊は記しています。
「その年の夏、坪内士行氏が東宝劇場の文芸部長になって東上した。それに関連した、ちょっとした要件があって、雙柿舎に逍遙を訪問した。
すると、両三日前から肺炎で、三十九度、四十度という大熱で、先生は文字通り呻吟しておられるではないか。
隣の茶の間で、夫人にお目にかかったが、これこれだから、きょうはこのまま帰京せよということだった。が、何しろ七十六歳の老体ではあり、なんだか心配で、去りがてな心持で、暫くじっとしているうちに、ちょっと遭って行きますかということになって、おそばへ行った。
まったく、ひどくおわるい。見ると、ひとりの看護婦が、後頭部を指でジッとおさえている。こうしていてもらうと、頭のその部分の妙な痛みが、うすらぐというのである。そこで私が膝をのりだして、看護婦さんに替っておさえてみることにした。というのは、一時流行した臼井式の霊気療法を、松居松翁氏のおすすめで、病気がちの山妻のためにならって、皆伝まで受けていたので、多少の自信もあって替ったわけだった。
ところが、気のせいではあろうが、たいそう涼しくなるというので、いい気になって、頭部ばかりでなく、胸からせなか、腰のほうまで手のひら療治をした。
『妙だね、君の手は、だるいと思うところへ行く」と先生が言う。それは、多少こちらに感じるから、その感じの強いところへ手の指先がとどまるからなのだ。
では、一両日お手伝いをしてまいりましょうということになった。側近者として雙柹舎内にいた生田七朗氏は、病人をあつかったことがないから、怖くて手を出し兼ねるとあり、山田清作氏も眼が不自由であり、看病の経験に乏しいので閉口している。わたしは、一向に褒めた話でもないが、年寄や山妻の看病で年期を入れているので、看病だけはおどろかないのである。揉みさすりもしてきたし、両便のためにだきかかえもしてきている。二人の看護婦を相手に、年寄の肺炎をなおしたこともあるのだ。食事ごしらえも少しはしたおぼえもある、というようなわけで、この先生の肺炎の時には、それが役に立って、思わぬ孝行ができたのだった。
一日か二日と思ったのが、三日になり四日になったが、あの、人に世話をかけることなど大嫌いの先生から、もういいから帰れというお言葉が出ないのだ。便器にかかる時でも、看護婦がだきおこすよりも、僕のほうが痛くもなし、らくだというらしい。(略)そのうちに、熱も分離して、一応大丈夫となるまで、十日近くおそばにいた。
ある夕方などは、たしかブドートーだかオムナジンの注射をしたところが、ひどい悪寒戦慄がきた時などは、先生がわたしの手を持ちそえて、下腹部をおさえるようにしたこともあった。(略)
前にしるした『看護の歌』は、その時、それぞれ手配して看病のお手伝いをしたのを悦ばれたからのものだったと思う。
だが、しかし、この夏の肺炎は、十分になおりきらず、結局、翌年一月末からどっとたおれて、二月二十八日の逝去となったのである。その時にも、親しく看病をしたが、この時は、もう追々に、口をきかれなくなるので、どうにもまいってしまった。」
繁俊は、用事で行った熱海雙柹舎で、熱に呻吟する逍遙をそのままにはできず、霊気療法を施します。この時はトイレのお世話もし、下腹部をおさえるようにした、という記述があります。このあたりのことについて、登志夫が繁俊から聞いていた話を書いたものがあり、合わせて読むととても興味深いので、次回それをとりあげます。
写真は、逍遙が大正9年から亡くなるまで住んだ熱海の雙柹舎。(繁俊著『人間坪内逍遙』より)
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