「逍遙先生のものを握ったのは、俺だけ。」

前々回のblogにあげた、繁俊の著書のなかで、霊気療法の皆伝を受けていたと書いていますが、この臼井式霊気、ネットで検索してみたところ、今も存在しているようです。霊気は、松居松翁氏のおすすめで始めたそうですが、この霊気、ぱっとできるように書いてありますが、結構苦労もあったようで、登志夫は『シェイクスピア劇の翻訳と演出 坪内逍遙と加藤長治(荒井良雄編)』(英光社)へ に寄せた序文「坪内逍遙と父」にこう書いています。この序文には、ある秘話も披露されています。

「特に印象に刻まれているのは、父がしばしば熱海の雙柹舎へ、時には一週間も泊りがけで、逍遙の見舞いに行ったことである。

 逍遙は晩年病気がちで、不眠症で悩んでいたという。父が行って、”霊気療法”を施すと、逍遙はすやすやと寝入ったとか。それは松井松葉(翁)に教えられた療法で、たしか当時としては大金の百円を投じて霊気の持ち主から霊気を授かったときいた。父の場合、霊気は右手の中指の先から通じた。私自身も体験している。手にけがをしたとき、父が繃帯の上から触れるうち、『ア痛タタ』と声をあげた。ピリピリと感じるのだという。たしかに繃帯の下のその場所に、傷口はあった。病弱だった私は何度も、額に手を当ててもらったのも覚えている。

 熱海へ行く前の晩、食後に食卓の前で両肘を張り、眼の高さの位置で合掌しているのも見た。心臓より高く合掌を続けると、霊気が強くなるのだとか。それが四十分間とあって相当くたびれるらしく、途中で母に『おい、まだ四十分にならんか』ときいていたのを思い出す。(略)

 もうひとつ、父がたぶん私以外には誰にも言わず、むろん書き残してもいない秘話がある。看病のある夜。床の中の逍遙が不意に『君、すまんが私のものを握ってくれんか』という。びっくりしたが、素直に『はい』とこたえて一物を握ったというのだ。逍遙が自らの手を添えてときいたように思うが、それは記憶が確かでない。ただこの話をぽつりと話したあと、きっと先生は心細くて、シャンとしたかったのだろうと言い、『先生のものを握ったのは、おれだけだろうな』と、懐かしげにつけ加えた声音ははっきり覚えている。

 この話は師とその弟子の、並々ならぬ信頼度を証するいい話に思われて、忘れられない。青雲の志を抱く少年とその親友が、互いに握り合って信義を確かめ合ったという話はある。逍遙と父の場合、一方的にもせよ師弟の深い信頼関係をうかがわせる佳話だと思うので、敢えて記した。」

登志夫は、繁俊がこの秘話をどこにも書いていないといっていますが、前回のblogに引用した文章で、繁俊は、「先生がわたしの手を持ち添えて下腹部をおさえるようにしたこともあった」と書いています。「下腹部」=「一物」、だったと、登志夫の文章を読んで気付きました。。繁俊ははっきりわかるようには書きませんでしたが、この時のことを、登志夫に話したのではないかと思います。登志夫ももちろん繁俊のこの本を読んでいますが、とてもたくさんの文章を残しているので、どこに何が書いてあったか、または書いていなかったか、定かでなかったこともあったと思います。

この秘話からも、繁俊は最後まで信頼を得た一番弟子だったことが感じられ、子孫としても繁俊を労いたい気持ちになります。

昭和34年10月の朝日新聞に掲載された、早大演劇博物館にある逍遙像前での繁俊と登志夫の写真です。


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演劇研究家・河竹登志夫(1924-2013)、登志夫の父・河竹繁俊(1889-1967)、曽祖父の河竹黙阿弥(1816-1893)     江戸から平成に続いた河竹家三人を紹介するサイトです。(http//www.kawatake.online) (※登志夫の著作権は、日本文藝家協会に全面委託しています。写真・画像等の無断転載はご遠慮願います。)