繁俊は坪内家の中番頭/坪内士行の見方

前回、生方敏郎氏がみた逍遙と繁俊の関係について書きましたが、逍遙の甥で、養子になり、後に結婚問題から離籍された坪内士行氏は、どんなふうに繁俊を見ていたのでしょう。士行は、前回引用した文章中で、「逍遙とは絶交状態」だったと山田清作氏に言われていました。

「演劇学」繁俊追悼号への寄稿から引用します。

「坪内逍遙がこの世を去ったのは昭和十年二月二十八日であるから、今からするともう三十三年も昔の事になる。この折にはもちろんの事であるが、この後十四年生き延びて、二十四年の、月も同じ二月二十一日に亡くなった逍遙夫人の最後の時、および、その後の熱海双柿舎の始末の一々まで、それこそ全く肉親以上に、身を粉にして看病し、介抱し、心を配って、美事に処理してくれられた河竹繁俊博士が、ついに旧冬、長い斗病の後亡くなられた事は、坪内家の一員である私として、まことに感慨無量ならざるを得ない。

 逍遙の周囲には、昔に遡るほど、多くの門下生が集まっていた。演劇の実際面の関係者のみに限って、よく我々が『右大臣、左大臣』と戯れに呼んだ金子馬治、島村抱月の二人を筆頭に、土肥、東儀、水口らから、福味文郷、宇津木騮太郎、山岸荷葉、大鳥居弁三、また、門下生とは言えぬが、伊原青々園、松居松葉(後に松翁)など、盛んに余丁町の逍遙邸に出入りしていた。これらの人々を初期のグループとすると、次の中期の演劇人としては、明治三十六年の早大卒業生である中村吉蔵を先頭に、水谷竹紫、楠山正雄、池田大伍、島村民蔵などが、逍遙幕下の親衛隊員とでも名づけられるであろうが、もうこの頃すでに、秋田雨雀や仲木貞一のように、必ずしも逍遙の直門とは言えぬばかりか、多少とも主義傾向を同じくしない人々が現れている。まして逍遙の晩年における演劇面の親衛隊員式門下生としては、文芸協会の俳優養成所出身数十名の中からも、私はただ一人をあげるだけだと思っている。そして、その一人こそがすなわち河竹繁俊博士なのである。博士は、早稲田大学でも文芸協会でも逍遙の教えを受け、この間、逍遙のあっせんで黙阿弥の養孫として河竹家に入籍しているが、特に昭和の初めに、演劇博物館設立の案が実行に移される頃からは、他の門下生とは段違いに逍遙の左右に侍る時が多くなった。(略)

その梁川と前後して、坪内家には絶えず三、四人の書生がいた。その中の一人に、明治二十七年から逍遙邸に寄寓した山田清作というのがある。(略)若い時から坪内家の執事役、番頭格として、公私に亘って逍遙夫妻の相談役となり、時にはヅケヅケとご意見番も勤めた、いわば坪内家第一の忠臣であった。この山田も、逍遙の死の前後はもちろんの事、その後は双柿舎庭内の別棟に夫婦共々移り住んで、未亡人の世話をし続けた。この点は河竹博士と全く同一である。我々逍遙の身内の者が、山田を大番頭、河竹博士を中番頭と呼んだのは、つまり山田の方が年数において遥かに古いからにほかならない。」

山田清作さんというのは、15歳から坪内家に仕えた方で、繁俊とともに、セン夫人から逍遙の秘密の遺稿を預かった方です。この一件について、士行氏はさらに書いています。

「河竹博士がその後の著書『人間坪内逍遙』の冒頭に載せられた『逍遙の遺書と遺稿』について一言触れておきたい。(略)(遺稿には)要するに逍遙が終生他人に語りもせず、語るを好まなかった若いころからの~主として夫人の生い立ちを中心としての~行状をくわしく記した物であったという。夫人はもともと非常に視力が弱いうえに、英語で書かれたその上書きを解しえないままに逍遙から預かりもし、山田、河竹、二人に読んでくれと渡したのであることは言うまでもない。(略)

河竹博士は、これは発表されることを期待しての遺書に相違ないから、自分らの手元に保存したいと主張し、山田は、未亡人から読んでみよと預けられた物である以上、お返しすべきが当然だと言い、結局未亡人の手に戻されたが、一度封を切られた以上、未亡人も不自由な目を酷使しながら、二、三日がかりで読んだのであろう、やがて山田に、あれはぜひ焼かして貰いたいと申し出、すぐにその通りに処分されたそうである。焼失ときまった時に、河竹博士は、記憶にあざやかな中にと、要点だけをメモし、後にそれを自著『人間坪内逍遙』中におさめたのである。この遺書が、山田、河竹の二人の目にだけ触れたということは、つまりそれだけ二人が、逍遙夫妻から絶対に信頼されていた何よりの証拠になるが、しかし、未亡人の二人に対する感情は、この事あって後は、以前と全く同じだとは言えないデリケートな変化が生じたことは疑えない。もっとも、山田は昭和二十一年に七十一歳で死去したが、未亡人の最後までもみとった河竹博士に対して、未亡人は、必ずしも逍遙の生前ほどの信頼の念を抱いていなかったと言ってよい。それには、逍遙の死後十余年の間に生じたいろいろの世間の情勢の変化に伴い、未亡人が、あながち逍遙が言い残した通りではない自分自身の希望などを言い出しても、ほとんど受け付けられない不満もあったのであろう。そこには女性の微妙な心理がうかがわれる。(略)

おそらくあの世で逍遙も、未亡人の些細な不平などは歯牙にもかけず、河竹博士を歓迎して、『御苦労御苦労、よくやってくれました、有難う』と、かたい握手を交わしたに相違ないと思う。」

ということで、逍遙の身内からも「大番頭」の山田氏に次ぐ、「中番頭」と言われるほど、繁俊は逍遙に近く仕えました。逍遙の死後は、セン夫人にも献身的に尽くしましたが、この遺稿の一件をはじめ、その後も逍遙の遺言通りにしようとしたことがご遺族の気持ちを害することになったこともあったようです。それについては、養女のくにさんがのちに書かれている具体的なお話もありましたので、いずれ記したいと思います。セン夫人にも尽くしはしましたが、なによりも繁俊には、逍遙の遺志や気持ちに添うことが優先されたのだと思います。


この目次は、『人間坪内逍遙』のものです。この「逍遙の遺書と遺稿」に、逍遙の遺稿がどのようないきさつで焼かれてしまったか、そこには何が書かれていたか、ということが、緊迫感あふれる文章でつづられています。もちろん、セン夫人がなくなって十年もたってから発行されています。


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演劇研究家・河竹登志夫(1924-2013)、登志夫の父・河竹繁俊(1889-1967)、曽祖父の河竹黙阿弥(1816-1893)     江戸から平成に続いた河竹家三人を紹介するサイトです。(http//www.kawatake.online) (※登志夫の著作権は、日本文藝家協会に全面委託しています。写真・画像等の無断転載はご遠慮願います。)