逍遙との仕事は特別非常な難事業?

すでに、著作権保護期間50年が切れている繁俊の著作、復刊したらいいのに、、と思うものがたくさんあります。こちらがそのひとつ。松本清張の『文豪』に大分引用されている本です。

逍遙の死後、24年も経ってから、繁俊がやっと公表した、繁俊にとっては逍遙の大変デリケートなプライバシーについて書いた「1 逍遙の遺書と遺稿~自殺説と夫人の過去~」をはじめ、逍遙との長きにわたる交流から、逍遙の様々な面を描写したたくさんの挿話が載っています。この他に、逍遙が亡くなって、まだセン夫人も健在だった昭和14年には柳田泉氏と共著で『坪内逍遙』を刊行しています。繁俊は、河竹黙阿弥家の養嗣子として、黙阿弥伝を書き、黙阿弥全集を出版するという責務を果たしましたが、もう一人、恩師坪内逍遙についても、自分が伝記を残さねば、という気持ちにさせるほどの繋がりがありました。

日本の文学史上に大きな足跡を残す逍遙ですから、たくさんの門人、弟子、書生がいた中で、なぜ黙阿弥家に入った繁俊が最も逍遙の人間性を深く描いたのか。繁俊の没後に早大演劇学会が発行した『演劇学 河竹繁俊博士追悼号』に、作家・評論家(Wikipediaには、元東京朝日新聞記者で随筆家・文学者とあります)生方敏郎氏はこう書いています。

「今だから言うが、およそ坪内逍遙先生対手の仕事は、他の学校勤めや会社勤めや役所勤めとは、わけが違うのだ。非常に、特別非常な難事業なのだ。

 何しろ坪内先生は、第一に非常に智慧が細かく働く人だから、他人のやることを見るとじれったい。第二に先生は特別無類にエネルギッシュだから、大抵の人の仕事をみていると怠け者に見える。先生は御自身が急っかちで器用で行き届いた人であるから、他人のやることをみてバカとは口に出してはいわぬが、バカに見え歯がゆくてならぬ。少しも気に入らぬ、こういう先生の下で数年一つもボロを出さずに勤めた、こんな人は他にいない。

 これは山田清作君の私への話であるが、山田君は越後から出て、坪内先生のお宅の玄関番になったのは数え十五の年からだがそれ以来一緒に玄関にいた者で(七人あったが)先生のお宅へ晩年までお出入りの叶う者は、私と綱島梁川君と二人だけでした。嵯峨廼家おむろでも長谷川如是閑兄弟でも飯田万吉君でも、坪内大蔵君でも坪内士行君(此の二人は先生の甥御さんで、一度は養子であったのが、離籍された)でも、皆先生とは絶交同様ですよ、と述懐されたことがある。

 島村抱月さんは松井須磨子と道ならぬ恋をしたとはいいながら、あの始末だ。坪内先生は役の行者で島村さんは藤原の広足、須磨子は魔女という役割だ。

 坪内先生の命令で校歌を作った相馬御風のこぼし話を聞かされても、通俗世界歴史を執筆した松本雪舟の泣き言をきいても皆同様だった。

 此の中にあって、独り河竹博士だけは悠々として余裕綽々、克く先生と共に演博で働いて一度も先生をいらだたせなかった。

 尚、その間に在ってあの立派な大著述を完成された。その著述にも又ソツがない。其著、其人柄共に、玲瓏玉の如きものである。」

というわけで、逍遙先生の手足となって仕事をするのは、そしてそれを続けていくのは、なかなか他の人たちにはできないことのようでした。この『人間坪内逍遙』には、その辺の、逍遙を満足させた付き合い方の秘訣、ヒントがそこここに垣間見えます。



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演劇研究家・河竹登志夫(1924-2013)、登志夫の父・河竹繁俊(1889-1967)、曽祖父の河竹黙阿弥(1816-1893)     江戸から平成に続いた河竹家三人を紹介するサイトです。(http//www.kawatake.online) (※登志夫の著作権は、日本文藝家協会に全面委託しています。写真・画像等の無断転載はご遠慮願います。)