橋田壽賀子氏と繁俊と「衆道」

先日、橋田壽賀子氏が94歳で、文化勲章を受章されたニュースがありました。橋田氏は、昨年5月に日経新聞の「私の履歴書」に登場しておられました。この連載の9回目で、繁俊のことに触れられていました。「早大入学」という見出しの回です。橋田氏は、登志夫の半年あと、大正14年のお生まれですから同世代になります。昭和21年の春に専門学校の「日本女子大学校」を卒業されたあと、国語学者になりたくて東大と早稲田を受験し、早大文学部国文科に合格されたということです。そうしたら、これまでいた女子大で教えていた教授が早稲田に教えにきていたので、同じ講義を聴くのはつまらないと、転科を考えられたそうです。以下引用します。

「早稲田には歌舞伎の研究で知られる河竹繁俊先生がおられた。先生を仰ぎ見て『歌舞伎の勉強もいいなあ」と思うようになったが、そのためには芸術科へ転科する必要がある。先生に相談するとあっさり認めてくださり、芸術科の演劇専攻に移った。

 歌舞伎が面白くて、築地の『東劇』の3階席に陣取り、同じ演目を3回も見たこともある。ある日、先生が『橋田君は今度の講義に出なくていいから』とおっしゃった。後で聞いてみると『衆道』の話だったそうだ。」

それから2年生になり、松竹が脚本養成所が研究生を募集していると知って、試験を受けた、というところでこの回は終わっています。この試験には、同じクラスで一緒に受験した人が隣に座って、正解を教えてくれたそうです。試験監督は新宿の喫茶店で顔なじみの助監督だったので見て見ぬふりだったとか。

このあと、橋田氏は松竹に入り映画の仕事をされますが、大変な女性差別を受け、秘書室へ異動命令が出たため、お茶くみはいやだと退職し、その後テレビの仕事に進んでいかれたわけですが、取捨選択の決断が早く、行動力があるのが、本当にスゴイです。

それにしても、松竹の試験のこともそうですし、大学での転科のことなども、繁俊があっさり認めれば済んでしまうのですからびっくりです。繁俊が、衆道のお話を女子に聞かせないようにしたという話も、BLなどが流行る現在では、逆に女子に「先生、そんなの気にしなくても!なんとも思いませんから」などと笑われてしまいそうです。

そういえば、こんな本が残っています。

「日本男色考」。昭和22年の発行なので、橋田氏の授業の時よりあとです。歌舞伎の歴史には衆道の研究も必要ですから、買い求めたかもらったかは知りませんが、繁俊が目を通したものでしょう。

この本のまとめは、写真にもありますが、

「(衆道は)今日は全くその根跡も絶ち、恐らく、変態病者や男囚監獄等の一部に隠然として行はれて居るにしか過ぎないと見る可きである。」

これも、今ならあり得ない表現です。なんでも、未来を予測するのは難しいことです。

余計なことですが、この筆者は、表紙などでは田原香風となっていますが、奥付では、秀風になっています。校正で大事なところが抜けてしまうことはありますが、かなり大きな見落としです。

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演劇研究家・河竹登志夫(1924-2013)、登志夫の父・河竹繁俊(1889-1967)、曽祖父の河竹黙阿弥(1816-1893)     江戸から平成に続いた河竹家三人を紹介するサイトです。(http//www.kawatake.online) (※登志夫の著作権は、日本文藝家協会に全面委託しています。写真・画像等の無断転載はご遠慮願います。)