『文豪 行者神髄』が描写した逍遙夫妻の写真
こちらは、繁俊著『人間坪内逍遙』の口絵に掲載されている繁俊の師・坪内逍遙夫妻の若い日の写真です。教科書に載っている晩年の白髪白髭丸眼鏡の逍遙とは違って、まだ三十を過ぎたばかりの姿です。松本清張は、この写真について、『文豪』に収録された『行者神髄』で描写しています。主人公の「わたし」が、逍遙が最後に暮らした熱海の雙柹舎(そうししゃ=双柿舎)を見学に行き、この写真の前に佇んで描写します。
「これは坪内雄蔵が三十三歳、永福謙八の媒介で鵜飼常親の養女センを娶って五年目である。向かって左側に立つ逍遙は豊かな髪を七三に分け、眼鏡をかけ短い口髭を生やした壮年で、背広の上にラッコ毛皮の襟のついたコートを着て左手はポケットの中に右手は毛皮の帽子を握っている。右側の妻センは縞の着物に合せ衿のコートを着て左手は肩掛けを二つに折って前に抱き、右手は袖の中に軽く引込ませている。その顔の輪郭は瓜実顔で、眼は眦(まなじり)が上がったようで少しきついが、鼻筋は徹り口もとはしまり、整ったなかにも可愛い感じである。頭は束髪で、前にはたばねた髪を捲いた珊瑚珠のような環が見えている。明治の女の二十七歳にしては若く見える。写真館で撮ったらしく背景には椰子を描いた幕(スクリーン)があり、その冬支度でも分るように二十四年の一、二月ごろか暮近くのようである。たしかこの年は『早稲田文学』を創刊したと思うがと考えながら、妻センの顔を見ていると、横合いからふいに、
『どうです、なかなか佳い顔をしている細君じゃありませんか』
という声が聞こえたのでわたしは少々おどろいて眼をむけた。」
この、「わたし」に声をかけた男は、
「逍遙も気の毒ですね。細君は亭主のデスマスクも人にとらせなかったそうです。なにしろ逍遙は自殺だったんですからな」
と続け、二人の会話は続いていきます。「わたし」は最初この男の物言いに不快感を感じます。
「しかし、この男の自信のある言い方には、ひと通りはその話を聞いてみなければならないものが感じられた。とくに逍遙の性格には『躁揚』と『鬱憂』との交互現象があったこと、その死は自然死ではなく、最期は『自殺』であったなどの話は意表を衝くものがあった。
もし、この男が単に、逍遙は自殺だった、と云い放っただけで終ったなら、わたしも彼が気を衒っての一言として無視したであろう。だが夫人が逍遙のデスマスクを拒んだとか、河竹・柳田共著『坪内逍遙』の一句をさりげなく口に出すとか、逍遙の自然主義文学への攻撃とか、従来云われているような逍遙の中にある楽天主義と懐疑主義とを、右の精神病理学的な用語に置きかえるとか、とにかく逍遙に関する通説を一応心得た上で、自己の逍遙観をちらつかせ、さらには逍遙の私生活面にも通じているらしい口吻をするなど、わたしも彼から離れることができなくなった。」
男は、別れ際に 逍遙の戯曲『役の行者』を話題にします。
「逍遙こそまさに修験道の行者だったと思うんです。あらゆる苦痛、懊悩、困難を自ら引き受けて超人になりたいと修行していた生涯の姿は、行者ですよ。まるでヨガの修行みたいなものです。十字架を背負っているどころではない。これには頭が下がります。」
男は、その後、「わたし」に、資料とともに逍遙が背負っていた十字架についての考えを書いた長い手紙を、送り主の名や住所は書かずに送ってきます。最後には、この、やたら逍遙について、明治の文壇について詳しい男の、正体は?という謎解きもあります。
文豪でも、教育者でも、ただただ道徳的で欠陥がなく、親類縁者も全員申し分ない、という人物は皆無でしょうけれど、繁俊が敬愛した師、逍遙についてはなんとなく完全な人、というイメージを持っていました(娼妓を妻にしたということも含めて)。繁俊の『人間坪内逍遙』、『逍遙、抱月、須磨子の悲劇』を読み、また清張の『行者神髄』を読んで、ますます逍遙の人間味を強く感じ、もっと逍遙を知りたい気持ちが強くなりました。
登志夫の生前最後の随筆集『背中の背中』のタイトルの意味は、父繁俊の背中、そして、繁俊が追った逍遙の背中、のことでした。登志夫はペンネームですが、本名の俊雄は、繁俊の名前と、逍遙の名・雄蔵の名前をミックスしたものです。黙阿弥から糸女、繁俊、登志夫まで河竹家は逍遙と深い縁が続きました。
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