逍遙の不死鳥を飾りました!

秋深まり、扇風機をついに押入れにしまうことにしました。天袋には、扇風機を収納する箱と並んで、梱包したままだったこの額がありました。最近逍遙先生のことを読むことが多く、2011年頃に逗子の登志夫の家仕舞いをした時、こちらに送ったままだったのを出してみたくなりました。
ささやかなマンションのリビングですが、ピクチャーレールをつけておいてよかったです。額の横幅が1メートルちょっとあります。
関東大震災ですべて燃やしてしまった経験から、また経済的にも、うちには高価な美術品を集める趣味はありませんでしたが、この絵は仏壇の部屋にいつも飾ってありました。

こちらは、『人間坪内逍遙』に収録されている昭和31年8月に東京新聞に掲載された「フェニックス」という題の、繁俊の文章です。引用ではなく、短いのでまるごとご紹介します。東京新聞から、「うちの宝物」とか、そんなコーナーでの原稿の依頼だったものと思われます。

「もう三十何年も前になりましたが、関東大震災のとき、本所で何もかも焼亡して以来、美術品といったものはほとんど収集しないので、とんと申し上げるほどのものはありません。

 書斎にかけて毎日ながめて思い出にしているのは、その震災の直後恩師坪内逍遙先生がかいて下さったこの額です。絵はフェニックス(不死鳥)が炎の中で羽ばたいているところ。『化々即生々~亜剌比亜の野に霊鳥あり、比尼基或いは訳して鳳凰となす、羽毛紫朱金光を帯ぶ、毎五百歳自ら火化して更生す、故に起死回生の象徴となす。発亥秋大災後一月、為河竹君、逍遙』と讃がしてあります。

 焼け野原に立ってぼんやりしていた当時のわたくしには、何よりも大きな激励になりました。その後小宅を逍遙先生が訪問されたとき、表装してあるのを見て、『ア、しまったトサカを書くのを忘れた、そのうち書き足して上げよう』と苦笑されていたが、そのままになってしまいました。」


繁俊が書いているように、関東大震災の直後、長男や家、黙阿弥家のたくさんの大事なものが入ったお蔵、すべてなくした繁俊に、逍遙が書いて与えたものです。1923年の10月のことですから、今から97年前のこと。紙はもっとずっと白く、絵の墨の色や、金色は鮮やかだったはずです。しかし、日に焼けたり褪色するからといってしまっておいてはもったいないので、これからはこのすばらしい思い出を持つ書画と暮らしたいと思います。

それにしてもこのフェニックス、ずいぶん可愛い顔をしています。逍遙の門下で、他にも池田大伍さんなど、震災に遭った人がいて、同様のものを書いて与えたということですが、トサカを書き忘れたのはこの一枚だけだったのかどうか、そこが気になっています。





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演劇研究家・河竹登志夫(1924-2013)、登志夫の父・河竹繁俊(1889-1967)、曽祖父の河竹黙阿弥(1816-1893)     江戸から平成に続いた河竹家三人を紹介するサイトです。(http//www.kawatake.online) (※登志夫の著作権は、日本文藝家協会に全面委託しています。写真・画像等の無断転載はご遠慮願います。)