松本清張の『文豪』は、繁俊の『人間坪内逍遙』がベース。

繁俊の師・坪内逍遙のウィキペディアの記事を見ていたら、「家族・親族」の項目に、セン夫人のことについての記述がありました。セン夫人が根津の遊廓の娼妓・花紫だったことはご夫婦ご存命中から知っている人は知っている事実だったわけですが、このあたりのことを松本清張が「文豪」という作品(「行者神髄」)に書いているというので、早速図書館で文庫本を借りてみました。

読んでみると、内容はほぼ繁俊の「人間坪内逍遙」がもとになっていてびっくりしました。変な意味でびっくりしたのではなく、清張は真面目に引用などをするたびにできるだけ、、「河竹の本に出ている通りで」、「河竹繁俊の『人間坪内逍遙』によると」などときちんと断りながらお話を進めておられます。

繁俊が色々な人間関係を考慮して葛藤の末に書いた著書を、ちゃんと読んで、きちんと出典を示されていることに驚いたのです。

内容は、逍遙自殺説や、セン夫人のことが原因で躁うつ病のような人生であったこと、山田美妙の小説家としての才能に脅威を感じて、逍遙が小説の筆を折ったことなど明治文壇事情なども面白く書かれ、とても興味深く拝読しました。

そうして、最後は、推理小説家らしい謎解きで終わり、オリジナリティがあり、途中で飽きることもありませんでした。松本清張の作品は、時代に翻弄される悲しい理由がいつも話のベースにあり、小説もよく読みましたが、映画「砂の器」は何度見ても、ハンセン病への偏見によって苦しんだ親子の姿に涙がこみ上げます。清張が「悲壮な夫婦」であった逍遙とセン夫人のことを書いたのも、似たような部分で清張の琴線に触れたのではなかったでしょうか。

清張は、この作品の登場人物の言葉として、「河竹繁俊の『人間坪内逍遙』は、門下生の書いたもののなかでも、わたしの読む限り一番逍遙の『人間』に迫っている」と書いています。『人間坪内逍遙』は、実は最近読んだばかりだったのですが、これを読んではじめて、逍遙と繁俊の関係がここまで深いものだったことを知りました。繁俊が多くいる弟子たちのうちのひとりだということはもちろん知っていたのですが……。

繁俊は、黙阿弥の家を継いだとはいえ、実際黙阿弥に会ったわけでもなく、繁俊の心は早稲田の学生の時に逍遙を師と仰いで以来変わらず、晩年になるにつれ側近や弟子が離れていっても、親戚以上に近く仕えました。黙阿弥家に入ったのも、ほかならぬ逍遙先生からのお話だったからで、本当は繁俊の周りにいた文芸協会の研究生がみなそうだったように、新しい演劇や、文芸を志したかったのです。ここには、敬愛する師とのたくさんの思い出が詰まっています。自他ともに認める、坪内逍遥の一番弟子が書いたのですから、ここに描かれた逍遙はとても魅力的です。逍遙の養女・飯塚くにさんの書かれた「父逍遙の背中」も面白い貴重なエピソードの連続でしたが、繁俊のは、弟子の視線でまた違った、チャーミングな逍遙の姿を描いており、たとえ逍遙に興味がない人が読んでも、教科書には載っていない文豪の一面に驚かされるのではないでしょうか。


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演劇研究家・河竹登志夫(1924-2013)、登志夫の父・河竹繁俊(1889-1967)、曽祖父の河竹黙阿弥(1816-1893)     江戸から平成に続いた河竹家三人を紹介するサイトです。(http//www.kawatake.online) (※登志夫の著作権は、日本文藝家協会に全面委託しています。写真・画像等の無断転載はご遠慮願います。)