歌舞伎座9月の『寿曽我対面』と黙阿弥
黙阿弥の足跡は、自身の作でなくても、いろいろなところに残されています。たとえば、先月の第一部に中村錦之助さんの十郎、尾上松緑さんの五郎で上演された『寿曽我対面』。このお芝居は、かつては11月の顔見世興行でどの芝居小屋でも必ず上演されることになっていたジャンルである「曽我もの」の演目のひとつです。昔は、出演する役者は11月スタートで1年契約されていて、この月を顔見世といって出演者が勢ぞろいしてお披露目するというオールスター出演月でした。そういうことで、「対面」のようにいろいろな俳優の役割に合ったいろいろなタイプの役柄がそろって登場するわけです。有名な『助六』もこの曽我ものの一つですが、無理やり五郎十郎の兄弟にはめている感じがするくらい、かなりルールは自由です。歌舞伎は、過去の作品をアレンジして作り変えるうちにだんだん形が定まったり、新たな筋立てができたり、変化してきたわけですが、この『対面』は、明治18年に黙阿弥が補綴した時の脚本がもとになっているものと言われています。平凡社の「演劇百科大事典」(←繁俊監修)、「歌舞伎事典」によれば、
”明治18年(1885)1月千歳座上演、河竹黙阿弥(作)『千歳曽我源氏礎』の大切(おおぎり)『曽我の対面』が様式を統一した台本として伝わり、独立した一幕となって『寿曽我対面』『吉例曽我対面』などの外題がつけられるようになった。”
「歌舞伎大事典」(柏書房)では、さらに、
”それを整理した明治36年(1903)3月歌舞伎座上演『吉例曽我礎』の台本に拠り、演技・演出の型が一定した”としています。
「歌舞伎座百年史・本文上巻」では
”この『対面』(明治36年3月歌舞伎座)は、五代目菊五郎の遺児たちの襲名披露狂言であり、工藤を勤めた九代目團十郎が兄弟の手を取って教え、大好評を得た、この時の演出が現行の『対面』の型と定まった”と書かれています。
ふたつの説を合わせれば(←安易に合わせていいのかは知りませんが)、黙阿弥の作で上演したものをもとに、明治36年の上演時にアレンジして演出したのが現行のもの、ということのようです。黙阿弥作、という演目でなくても、補綴のような仕事でかかわって現在に残っている作品は数多いことでしょう。
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