河竹家と震災⑭焼け残ったもの⑥金貨五百円

さて、そろそろ焼け残ったものも最後です。葛籠には、最も現実的に価値のある金貨五百円が入っていました。この金貨は、黙阿弥がなくなる前の年に両親から糸女が預かったものでした。登志夫著「黙阿弥」にこの金貨に関する残念な顛末が書かれています。

「家督相続の済んだ(明治25年)七月の二日の夜、糸女はまた書斎に呼ばれた。こんどは両親がならんですわっている。黙阿弥はおもむろに、

『ほかのことでもないが、人は一代のうちかならず災害にあうものだ。中でも困るのは、大地震、安政のようなことが起ったら、銀行や郵便局に預けた金はすぐには手に入らないー

天災は誰にもおなじ、助けてくれるものはいない。そのとき困らないようにと、土蔵の縁の下に、金貨五百円を壺に入れて埋めてある。それだけあれば一時の間に合う。そのうちに銀行や郵便局で引出せるー

安政の大地震の時、金はみな家にあったので急場に弟子たちを救うことができた。金貨の壺はその経緯を生かした、深謀遠慮だったのだ。母の琴女もそばからいった。

『おとっさんの恩を忘れなさるな。お前が長年親に孝行してくれたから、ひとかたならず愛してくださっての賜物なのだからね』

余談だが、黙阿弥の家では下町言葉や御殿言葉といっしょに、『愛する』とか『徒然で』とかの言いかたもした。黙阿弥も手記では一人称を『僕』と書いている。

きかぬ気でおよそ泣かない糸女だが、このときはおもわず涙を流し、両手をついて礼をのべた。黙阿弥はこうつけ加えた。

『紙幣に取替えなんぞするなよ。金の値打は変わらないからな。それから、このことは誰にもいわねえがいい。いまの新しい人がきけば、なんだいつあるか知れない天災のために、五百円という金を土の中へ埋めておくなど、こんな馬鹿馬鹿しいことはないと、笑われるだけだから』

糸女は父の言葉どおり誰にもいわず、明治四十三年八月の大水のとき、深夜ひとりで水の中の土中から壺を掘り出して、土蔵二階北側の葛籠の中へ移した。

大正十二年九月、またも黙阿弥の予言どおりに関東大震災が襲い、家も土蔵も灰燼に帰する。が、葛籠とともに金貨はのこった。

糸女が書生を叱咤し背負わせて、猛火の中で命がけで古葛籠を助けたのは、『家』にまつわる遺書遺品を守るためだけではない。家族の命をつなぐ金貨という実体が、入っていたからでもあった。

しかし父の遺風をうけて、おとらず用心深い糸女が、現金いくばくかを胴巻に入れて逃げたため、金貨は手つかずにのこった。

糸女は死期があと一年足らずと覚ったとき、養嗣子の繁俊とみつ夫妻、亡兄市太郎の長男三五郎を呼び、右のような金貨のいわれを精細に記した『父母の賜』という一文を示し、かねて用意の遺書どおりに分配した。

遺書には、三人に百円ずつ、あとの二百円は札に替え、吉村、伊藤両家の菩提寺とゆかりの二つの寺ー浅草(後に中野へ移転)源通寺、深川心行寺、湯島霊雲寺、藤沢遊行寺ーへ永代経料として五十円ずつ納めること、と記されていた。

私も幼時、父(繁俊)に『これが金貨というものだ、御先祖様からいただいたのだよ』と、見せられたことがある。やがて戦争になり、眼鏡の金縁から、父が母に結婚十年めに贈った金のカマボコの指輪、はては蚊帳の吊り手の金具まで、 “供出”する時代となる。

が、黙阿弥から伝えられた金貨だけはと、父は疎開先の信州の実家へ持って行った。終戦後、茶箱のひとつに入れて東京へ送りかえしたという。しかしなぜかその茶箱だけが着かず、それきり行方はわからない。」

震災の時、糸女が書生の倉沢さんに「こんなときに葛籠なんかを持って逃げるより、子供の着替えを持つほうが大事ではないか」と非難されながらも、頑なに葛籠と運命を共にしたのは、こういう事情があったからでした。


上の写真は、戦中に信州の実家に避難させたたくさんの荷物。登志夫が梱包を専門の人から教わり、信州に送りました。戦後、その荷物が成城の家に戻ったときの様子です。繁俊は、自らが中心になって建設し、その後も館長を務めるなど、運営に携わった早稲田大学演劇博物館所蔵の貴重品も、実家に避難させていました。この大量の荷は、その分も一緒になっていたのではないでしょうか。

下は糸女が金貨について書いた一文です。

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演劇研究家・河竹登志夫(1924-2013)、登志夫の父・河竹繁俊(1889-1967)、曽祖父の河竹黙阿弥(1816-1893)     江戸から平成に続いた河竹家三人を紹介するサイトです。(http//www.kawatake.online) (※登志夫の著作権は、日本文藝家協会に全面委託しています。写真・画像等の無断転載はご遠慮願います。)