河竹家と震災⑧焼けてしまったもの

震災で焼け残ったものは、書生の倉沢さんが糸女の避難した舟に乗せた葛籠と、繁俊が庭のできるだけ建物から離れた場所に移動させておいた箪笥。そして庭の石灯籠と土地、それだけでした。黙阿弥自筆本はじめ江戸の文献、書画、遺品などを入れてあった土蔵は焼亡。

この、焼け落ちた土蔵にはなにが入っていたか。

「文献では黙阿弥自筆の諸本のほか、石塚豊芥子の『花江都歌舞妓年代記続編』(続歌舞伎年代記)や『岡場所遊廓考』の自筆原本、書画では津藤香以の短冊や羽二重で表装して題簽を自書した『東都歳時記』、黙阿弥妻女の父の縁で賜ったという松平不昧公の画賛の一軸、柴田是真の絵や蒔絵、円朝の扇面……

四代目小團次がくれたという、直径二尺五寸ほどの藍色をした瀬戸物の金魚鉢、花所隣春が書いた雛屏風と、毎年それに供えた白酒用の玻璃(びいどろ)のフラソコ、糸女が名人お静から贈られた宇治派一中節の三味線とその譲り状……といった品々も、残っていたら文化史、美術史にとどめられるべきものだったろう。

そのほか、古書、番附、附帳、書抜、文人墨客の軸や書簡や手蹟、浮世絵などに至っては、どんなものがどれくらいあったか、おそらくは繁俊もその全貌を知らないまま、この世から消えてしまったのである。

だから父は、金銭的余裕のなさもさることながら、書画骨董を集めるということは、その後ついになかった。しかも骨董趣味の欠如はそのまま私に遺伝したから、わが家はもう、焼けようと、怪人二十面相のような美術泥棒が入ろうと一向平気、さばさばしたものだ。」

うちには、床の間のある和室がありましたが、由緒ある軸を季節ごとにかけ替えたり、などということはありませんでした。そのかわり、この部屋の窓から見える海と江の島、その後ろの大きな富士山の景色が刻々と変わるのを見るのが、それ以上の楽しみとなっていたかもしれません。

それでも竹久夢二の軸があります。帝国劇場での同僚で渋谷の近所に住んでい夢二が、震災後、経済的に困っていた時に、繁俊が買ったものだと聞いたことがあります。それと、やはりこの和室にかかっていた横長の、フェニックスの絵と書。これは坪内逍遙がこの震災で多くを失った繁俊を励ますために書いて贈ってくれたもので、いまも寄贈などはせず、娘が保管しています。

こちらが倉沢さんが糸女が避難した舟に積み込んで、焼失を免れた葛籠です。現在は、国立劇場に寄贈しています。繁俊が取りに戻った是真の屏風は、繁俊が逃げる際中、燃えるから、とすぐに警官から引きはがされてしまいました。

こちらは、繁俊が助けた箪笥です。

どんなものがここに入っていたか、次にあげていきたいと思います。

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演劇研究家・河竹登志夫(1924-2013)、登志夫の父・河竹繁俊(1889-1967)、曽祖父の河竹黙阿弥(1816-1893)     江戸から平成に続いた河竹家三人を紹介するサイトです。(http//www.kawatake.online) (※登志夫の著作権は、日本文藝家協会に全面委託しています。写真・画像等の無断転載はご遠慮願います。)