河竹家と震災⑦「作者の家」より/みつと子供たち③

みつと長女寿美子は、やっとボートから親船に移り、大勢の避難民はみな、念仏を唱えながら築地へ着きますが、本願寺に火がついたというので、すぐに月島に移されます。夜7時頃のことでした。寿美子を助けてくれたおかみさんや、川で水をかけ続けてくれていた男も一緒に助かりました。そこは水道管の工場で、みつは借りた柔道着に着替え、土管のなかで夜を明かしました。みつたちはここで四昼夜を過ごします。寿美子の火傷はひどく、三日目からやっともらえた粥には味がないせいか、食べようとはせず、一時は命が危ぶまれました。事情を知った親切な人からおにぎりをわけてもらい、食べることができ、そこから生気を取り戻しました。

震災時の朝鮮人虐待は史上有名ですが、みつはこの光景も目の当たりにしました。二日目の夜に噂がたちます。もうすぐ築地方面に狼煙が上がり、それを合図に不逞の徒が押し寄せてくる、というものでした。男たちは竹やりをつくり、見張りました。みつも眠れぬ夜を過ごしましたが、暴徒は来ず、翌朝は今日こそ襲われ、凌辱にあったり、耳や鼻をそがれてなぶり殺しになるという噂が起こります。みつは身投げしようと海岸に出ますが、そこで会った女性にたしなめられ、思い直しました。やはりその夜も暴動は起きませんでした。そのあと、「作者の家」から引用です。

「しかしその翌日、おそろしい光景を見た。数珠つなぎにされた十数人の男が、自警団員に引き立てられて、建物のそばに拉致されてきた。団員たちは棍棒や竹槍をつきつけながら、

『貴様たち、イロハを全部言ってみろ』

といって、一人ずつ順番にイロハをいわせはじめた。

すらすら言ったものは許されたが、途中でつかえたりすると、『この野郎!』と有無をいわせず無抵抗な男をなぐり、蹴り、はては壁に頭をガンガンぶつけたりして、折檻を加える。血だらけになり、蒼白になって、気を失って倒れるものもあった。

その様子を窓から目撃したみつは、正視に耐えず、窓に背を向けて顔を掩った。すると大声で、

『おい、やめろ。おとなしくしてるものを、かわいそうじゃないか。みんな、頼むから、もう勘弁してやってくれ』

と叫ぶ声が聞こえた。おそるおそる顔をあげてみると、八字髭の鈴木源次郎だった。

ほっと救われた気持ちがした。親切で正直者とは知っていたが、こんどは、なんてえらい人なんだろうと、尊敬の念がわいた。」

この髭の男は、この水道管工場の監督の鈴木という男で、この避難所で人々の世話をしてくれていました。寿美子におにぎりをくれたり、医者をみつけてくれたりしたのもこの人で、この時の縁から、退職後はみつの実家田中家の鵠沼の別荘番として住むことになります。

六日目に、やっと連絡ができるようになり、みつの実家の車夫が人力車で迎えに来ます。橋が落ちているので、車は対岸に待たせ、筏でやってきて、みつと寿美子は海を渡りました。水面にはまだ、いくつも死体が漂っていました。みつが助かったとわかったのは一家で一番最後で、みつ自身も、ほかの家族はみな死んだものと思っていました。

糸女かぞえで74歳、繁俊35歳、みつは27歳、寿美子6歳の時のできごとでした。

みつが数日を過ごした、月島三号地(現在の勝どき五丁目あたり)から、隅田川を挟んで築地方面を望む風景です。右手の一番高いビルは聖路加タワーですが、その左に、みつたちが最初に船を下ろされた水上警察があり、そのあと、本願寺に火の手が回り、対岸のこの埋め立て地に移されました。

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演劇研究家・河竹登志夫(1924-2013)、登志夫の父・河竹繁俊(1889-1967)、曽祖父の河竹黙阿弥(1816-1893)     江戸から平成に続いた河竹家三人を紹介するサイトです。(http//www.kawatake.online) (※登志夫の著作権は、日本文藝家協会に全面委託しています。写真・画像等の無断転載はご遠慮願います。)