切抜帳17より⑥新聞寄稿

1985年3月7日読売新聞に「成田や十二代の今昔」。5月からの歌舞伎座での十二代目團十郎襲名を前に、團十郎家がなぜ歌舞伎界で随一の地位になったのか、代々の團十郎はどんな人だったのかをとても簡潔にまとめた寄稿。

同年6月15日の朝日新聞(下)。上の「文化会議」の記事にあるように、北欧、ウィーン、ベルリンに能・歌舞伎の公演、講演旅行へ行った記事。朝日新聞の方は、登志夫の署名原稿にはなっていませんが、登志夫が書いているような文体です。

同年8月9日朝日新聞。「メトロポリタンの歌舞伎」。團十郎襲名披露訪米歌舞伎に文芸顧問として同行しての寄稿です。歌舞伎がもはや珍しいだけの芸能ではなく、ふつうの演劇一般として受け取られるようになっている、と書いています。この記事にあるように、この訪米公演の直前には故・二代目猿翁の『義経千本桜』通し上演の訪欧巡演が行われ、登志夫はウィーン・ベルリンでその盛況を目の当たりにしました。

團十郎襲名といえば…。あれは襲名のどのくらい前だったか、次女が高校生の時、玄関のベルが鳴ったのでドアをあけると、紋付き袴の当時十代目海老蔵さんが立っていらっしゃいました。横には風呂敷包みだったかを持ったお付きの男性。父も母もおりませんと告げると、そうですか、とご挨拶の品を置いてお帰りになりました。俳優さんのごあいさつ回りというのはよく襲名密着番組などで目にします。わざわざ車で逗子まで、在宅か不在かも確かめずにいらっしゃるのは、約束をするとこちらがそのために時間をあけ、もてなすからで、お互いに気を使わない合理的な慣習なのでしょうけれど、次女は大変申し訳なく思ったものでした。でも、逗子の隣の鎌倉あたりにはきっとたくさん御贔屓がいらっしゃったことでしょう。いまも、次女はその時の驚きを思い出すと高校生の自分に戻るのです。


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演劇研究家・河竹登志夫(1924-2013)、登志夫の父・河竹繁俊(1889-1967)、曽祖父の河竹黙阿弥(1816-1893)     江戸から平成に続いた河竹家三人を紹介するサイトです。(http//www.kawatake.online) (※登志夫の著作権は、日本文藝家協会に全面委託しています。写真・画像等の無断転載はご遠慮願います。)