黙阿弥14才、早熟な大江戸の若旦那①生まれは日本橋 祖父は通人

人は生きた時代と無縁には生きられません。大人の世界に足を踏み入れる年齢もその時代に影響されますが…。
光源氏はさすがに早く、12歳で元服し4歳上の葵上と結婚。
早熟だったと思われる永井荷風もまだ14歳では尋常中学校で勉学中。
黙阿弥の14歳は大江戸商家の若旦那。柳橋での度々の芸者遊びがみつかり早くも勘当です。昔の14歳は数え年、現在の満13歳ですから、今の中学1 、2年生でしょう、想像ができません。粋なお姐さんたちに囲まれている中学生の若旦那が浮かんできて、笑ってしまいます。早熟すぎ!

「河竹黙阿弥」( 繁俊著、大正6年1月春陽堂刊 )で繁俊は「早熟の黙阿弥は、こんな順序であっぱれ当時の風潮に同化してしまった。もし江戸時代、殊にこの頃の世相に暗かったなら、その行状について密かにまゆをひそめるかもしれないが、文化文政前後の遊惰淫佚の江戸を知るものには、実に何の驚愕にも値しない家常茶飯事であった」と言っています。こんな順序とは…?

黙阿弥は今から207年前、文化13年2月3日(1816年)、日本橋、現在の高島屋新館あたりの通称式部小路の、裕福な商家に生まれました。
あと50余年で江戸時代が終わる、文化文政前後の江戸文化の爛熟が頂点に達しようとした頃です。
黙阿弥の先祖の初代越前屋勘兵衛は享保年間(8代将軍吉宗の治世)に越前(福井県)から江戸へ出てきて、日本橋小田原町の一角に魚問屋の店を開きました。
そこで成功して、2代目の時に日本橋通り2丁目式部小路へ転住しています。中通りの角と記されているので角店であったのでしょう。2代目、3代目、4代目はここに住んでいます。後に6代目となった黙阿弥が産声を上げたのもこの家でした。
黙阿弥誕生の家の跡地、高島屋新館入り口の角です。入るとすぐ「365日」というパン屋さんがありましたので、記念にいくつか買って帰りました。
右隣が高島屋本館。
新館と本館の間が、式部小路と呼ばれていた道です。

新館前の中央通り、まっすぐ行くと日本橋です。
左隣りには、黙阿弥が生まれる10年前に創業の紙屋さんの榛原(はいばら)があります。黙阿弥の親友の是真や暁斎などが作品を手がけたゆかりの店です。ちなみにこの東京日本橋タワーのオフィスには、黙阿弥の玄孫(やしゃご)、登志夫の娘が勤めています。縁を感じますが、本人はそんなこととはつゆ知らず、2、3年前転職してここで働いています。
撮影日の高島屋本店のショーウインドウです。この日、8階で「松本幸四郎家高麗屋展」が開かれていました。黙阿弥作品を演じている代々の、大きなパネルも展示されていました。
黙阿弥の家系図です。
6代目吉村勘兵衛が黙阿弥です。
黙阿弥が劇界に入ってからの話はいろいろありますが、芳三郎(後の黙阿弥)が生まれた頃の事は、黙阿弥没後23回忌の追善に書かれた繁俊の、前出の「河竹黙阿弥」にしかありません。
黙阿弥の長女の糸女や高弟其水がまだ生存中で、いろいろアドバイスがあったはずですが、口の重い黙阿弥は自分の幼少時のことを家族にあまり話さなかったと見えて、叙述は限られています。
「生まれたときの初着(うぶぎ)は、紺色のちりめん地に流れに漂っている蓑亀が描かれている晴れ着。
袴着(5歳ごろのお祝い)は、柿色の縮緬地に大型の面づくしの模様で下着とも三枚がさねの立派なもの。一般的に衣類調度の好みを尽くすこの時代とはいえ、これだけの支度ができるのは相当なもので、裕福な商人の長男格(兄は夭折)として大切に育てられたのだろう」と書いています。この本が出版されたのは震災前で、本所の黙阿弥が住んでいた家だったので実物があったそうです。
黙阿弥が5歳の時に死別した祖父の3代目勘兵衛は「売り家と唐様で書く三代目」という川柳の通りで、文化文政の典型的な日本橋の大旦那の通人でした。粋人通客と交わり、遊蕩放埒、ぜいたく三昧。
「江戸町中喰物重寶記」などを持ち歩いて料理屋に通い、目の玉が飛び出るような初物ー初鰹、初鮎、初鮭を始めとして生椎茸、わらび、めうど、などの蔬菜類(栽培作物)の初物をも珍重したと伝えられています。世間ではさしみをたべて包丁の研ぎ方を吟味し、田楽を味わって刺串竹の産地をあてる。一杯の茶漬けのために、多摩川の上流に早飛脚を走らせ、香の物と煎茶一杯の茶漬けに1両2分を請求したという話もあったそうです。「美味しんぼ」を思い出します。
美食家(エピキュリアン)だっただけでなく、衣類、装飾品、芝居、寄席、花街、行楽と万事に江戸文化の果実をたのしんだはずです。なんという幸せな人生だったでしょうか。
そういう贅沢を尽くした結果は先2代が角店にまで作り上げた家産をだいぶ傾けたそうです。
「徳川幕府の封建制度によって抑圧されていたとは言え、上方から江戸への300年間は実に平民、町人の時代で、文化文政前後は華やかな情意生活を極度にまで享楽せしめた時代であった。」と繁俊。
下の錦絵等は、文化文政期の江戸の料理屋などです。平清、八百膳、百川などなど、、
黙阿弥が5歳まで一緒に暮らした祖父の気風や生活態度は、三つ子の魂百までと、黙阿弥が最初に知った生活感覚だったでしょう。研ぎ澄まされた繊細で鋭い味覚や美意識はおのずと黙阿弥の潜在意識の深いところで、生き続けたことでしょう。
祖母が9才でな亡くなり、10歳までこの家に住んで、芝金杉町(港区芝)へ越します。
まず今日はこりれぎり、、        (良)






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演劇研究家・河竹登志夫(1924-2013)、登志夫の父・河竹繁俊(1889-1967)、曽祖父の河竹黙阿弥(1816-1893)     江戸から平成に続いた河竹家三人を紹介するサイトです。(http//www.kawatake.online) (※登志夫の著作権は、日本文藝家協会に全面委託しています。写真・画像等の無断転載はご遠慮願います。)