切抜帳9より①(1974-1976 )/歌舞伎公演プログラム/深川水かけ祭登志夫もワッショイ

             撮影 升水滋

「切抜帳9」は、1974(昭和49)年から76年まで、登志夫が49-51歳の時のものです。

まずは公演プログラムを…。

こちらは1974年7月の文化庁主催・青少年芸術劇場「歌舞伎」プログラムへ、「歌舞伎の歴史と現状」。この公演の記録が「歌舞伎オンザウェブ」など、ネット上の記録には見つかりません。

こちらは上と同じ月ですが、地方公演「松竹大歌舞伎」プログラムとありますが、この記録もネット上の記録にはみつかりません。「歌右衛門と鴈治郎の『隅田川』」。そのうち松竹大谷図書館などで調べてみます。


こちらは同じ年9月国立劇場。「監修の言葉・黙阿弥のえがく人間模様」。

この月は「八幡祭小望月賑」、縮屋新助の上演です。最近はこれを改作した池田大伍氏「名月八幡祭」の方が上演回数が多いかもしれません。深川の祭の手古舞姿の美代吉がカッコよく、女方のいい役だな、といつも思います。この文の後半で、縮屋新助のモデルについて現地を訪ねて調査したことを記しています。登志夫は年譜にも、この時より4年前、「1970年2月 『縮屋新助』のモデル調査に新潟県小千谷、十日町を訪う。」と記しており、黙阿弥の時代の横つながりのようなものが推測できる面白い発見でした。いまも小千谷にある西脇商店(現在の名称)のHPにもこのことが記載されています。

文の初めには、登志夫が良子の実家の縁で、この芝居の舞台である深川の神輿を担いでいることが書いてあります。「三年ごとの本祭に必ずおみこしをかつがせてもらっている。今年も同様だったが…」とあります。たぶん、この時が三回目で、最後だったのでは、と良子はいっています。

このブログ1番最初の写真は、はじめてかついだ1966(昭和41)年のものです。神輿の先頭を担ぐのを「花棒をかつぐ」と言って、いちばん花形の場所なのです。登志夫も実家の縁で、ここを担がせてもらいました。娘たちも成人してからかつがせてもらいましたが、この場所は結構いろんな人が割り込んできて、ちょっと記念写真を撮ってすぐに抜けて行ったりする人気の場所なのです。水かけ祭で、沿道からホースやポリバケツなどでじゃぶじゃぶ水をかけてくれるのが担ぎ手には気持ちいいのです。

下の写真は門前仲町あたりの永代通りで、登志夫が担いでいるのは1番手前のお神輿です。町の名前の入った半纏で分かりますが、大勢の担ぎ手が周りにいます。

            撮影 升水滋

プログラムに書いてあるように、1974(昭和49)年、この芝居の宣伝行事に勘三郎、梅幸、勘彌が参加した写真がこれです。勘三郎さんの隣が登志夫です。

下の写真、名優たちが埋もれてしまっています。濃密です。実は祭りの翌日だったのですが、町の人たちが改めて集まってくれて、宣伝に協力してくれました。

前列、太鼓の横に腰掛けている白髪に鉢巻が、良子の父・岩崎猛です(1974年撮影)。

子供たちも山車を引いたりして楽しみました。担がない人も、家の前の道でポリバケツに水を入れて準備し、通る神輿に水をかけました。


こちらは翌1976年1月国立劇場「黒手組助六」上演に当り、「通客の芝居 黒手組助六の世界」。

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演劇研究家・河竹登志夫(1924-2013)、登志夫の父・河竹繁俊(1889-1967)、曽祖父の河竹黙阿弥(1816-1893)     江戸から平成に続いた河竹家三人を紹介するサイトです。(http//www.kawatake.online) (※登志夫の著作権は、日本文藝家協会に全面委託しています。写真・画像等の無断転載はご遠慮願います。)