切抜帳6より/5月6日、登志夫9年目の命日に…。

また登志夫の命日が巡ってきました。2013年、歌舞伎座新開場の顔寄手打式を勤めてすぐに亡くなりました。生まれたのは大正13年、歌舞伎座第3期新開場、そして築地小劇場創立の年でした。歌舞伎座3期スタートの年に生まれ、5期スタートとともに亡くなりました。(繁俊は、歌舞伎座第1期開場の年、明治22年生まれです。)今年も、連休に入って前半は不安定な梅雨のようなお天気でしたが、後半は9年前と同じような気持ちのよい晴天になりました。連休中、家族が毎日病院に通い、一緒に時間を過ごし、明日からまた仕事、という日に息を引き取りました。それから9年、この2年はこうして誰に向けるでもなく登志夫の残した仕事や、人生について記しています。生前読むことのなかった若き日の登志夫の雑誌や新聞などへの原稿に触れ、本当によく仕事し、好きな酒を飲み、やり切った人生だったと改めて感心するばかりです。
さて、切抜帳6に入りますが、その中から、父繁俊の死、そして自分の死について書いている文章を…。

昭和46年1月、安田信託銀行のPR誌。「父と住居」。父繁俊の晩年についてのエッセイです。終の棲家となった成城の家を、繁俊は愛していたけれど、書斎だけは渋谷の松濤の方が気に入っていた…。

「数日後に死の迫ったある日、ふと昏睡からさめた父は、『二、三日したら車でそうっと渋谷へ帰ろう。そのほうがくつろぐから』という。『ここは病院じゃないよ。成城のうちですよ。』というと、けげんそうな顔であった。混濁した意識の中で、あの書斎への愛着が、成城に過ごした二十八年の記憶をとびこえて、父を四十代の昔へと連れもどしたのではなかったろうか。それは演劇博物館の創立に献身し、歌舞伎史に打ち込んでいった最も野心と活力に富む壮年時代への、愛着と反芻だったのかもしれない。
その松濤の書斎の前にあったつくばいが、いま私の書斎の傍らにある。……ふと私はおもう。公害や交通禍のつのる今日、畳の上で死ねるかどうかさえ疑わしいが、もしそうとして、薄れゆく私の意識の中に映ずるのはどこだろう。富士のみえるこの書斎か、それとも、虚弱だった幼少のころ、病床からながめ暮らした松濤の家の天井の、人の顔に似た雨漏りの滲み跡だろうか、と。」


9年前、登志夫は病院のベッドで、「ふっと見るといつもそこに女がいる」とか、「そこらへんに大きいのや小さいのがいる」とか、言いましたが、それはおそらく、ほんとうに頻繁に色々検査や世話にきてくれる看護師さんだったろうし、大きいのや小さいのは、孫たちのことだったのだと思います。死の前日、緩和ケアのおかげで痛いところのなくなった登志夫は、もう治ったので、うちに帰れますか、と先生に尋ねていました。その「うち」とは一体どのうちだったかな、と思うこともありますが、登志夫はずっと頭がしっかりしていたので、最後にすごしたささやかな隅田川の見えるマンションの一室だったことでしょう。これを書いたのはまだ逗子の山の上に越す前でした。もしかすると、「作者の家」を書いた、富士と江の島と海が見える、40年以上を過ごした逗子の書斎を思い出していたかもしれませんが…。

次回は、繁俊の書斎、登志夫の書斎の写真をお見せします。



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演劇研究家・河竹登志夫(1924-2013)、登志夫の父・河竹繁俊(1889-1967)、曽祖父の河竹黙阿弥(1816-1893)     江戸から平成に続いた河竹家三人を紹介するサイトです。(http//www.kawatake.online) (※登志夫の著作権は、日本文藝家協会に全面委託しています。写真・画像等の無断転載はご遠慮願います。)