切抜帳6より/5月6日、登志夫9年目の命日に…。
昭和46年1月、安田信託銀行のPR誌。「父と住居」。父繁俊の晩年についてのエッセイです。終の棲家となった成城の家を、繁俊は愛していたけれど、書斎だけは渋谷の松濤の方が気に入っていた…。
「数日後に死の迫ったある日、ふと昏睡からさめた父は、『二、三日したら車でそうっと渋谷へ帰ろう。そのほうがくつろぐから』という。『ここは病院じゃないよ。成城のうちですよ。』というと、けげんそうな顔であった。混濁した意識の中で、あの書斎への愛着が、成城に過ごした二十八年の記憶をとびこえて、父を四十代の昔へと連れもどしたのではなかったろうか。それは演劇博物館の創立に献身し、歌舞伎史に打ち込んでいった最も野心と活力に富む壮年時代への、愛着と反芻だったのかもしれない。
その松濤の書斎の前にあったつくばいが、いま私の書斎の傍らにある。……ふと私はおもう。公害や交通禍のつのる今日、畳の上で死ねるかどうかさえ疑わしいが、もしそうとして、薄れゆく私の意識の中に映ずるのはどこだろう。富士のみえるこの書斎か、それとも、虚弱だった幼少のころ、病床からながめ暮らした松濤の家の天井の、人の顔に似た雨漏りの滲み跡だろうか、と。」
9年前、登志夫は病院のベッドで、「ふっと見るといつもそこに女がいる」とか、「そこらへんに大きいのや小さいのがいる」とか、言いましたが、それはおそらく、ほんとうに頻繁に色々検査や世話にきてくれる看護師さんだったろうし、大きいのや小さいのは、孫たちのことだったのだと思います。死の前日、緩和ケアのおかげで痛いところのなくなった登志夫は、もう治ったので、うちに帰れますか、と先生に尋ねていました。その「うち」とは一体どのうちだったかな、と思うこともありますが、登志夫はずっと頭がしっかりしていたので、最後にすごしたささやかな隅田川の見えるマンションの一室だったことでしょう。これを書いたのはまだ逗子の山の上に越す前でした。もしかすると、「作者の家」を書いた、富士と江の島と海が見える、40年以上を過ごした逗子の書斎を思い出していたかもしれませんが…。
次回は、繁俊の書斎、登志夫の書斎の写真をお見せします。
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