切抜帳5/能楽海外公演に同行①ケネディ暗殺事件

1968年6月7日から25日、政府派遣文化使節として能楽団がアメリカメキシコを巡演しました。登志夫は文芸顧問として同行しました。
この新聞にも書いてあるように、ワシントンに到着した途端に、なんとロバート・ケネディ暗殺事件が起き、騒然となります。
「観世」編集部への登志夫の手紙が、その緊急の様子を伝えていますので、抜粋します。

「観世」7月号より
「6月4日午後6時、日航機にて全員元気に羽田空港を出発した。その後編集部では、現地からの通信を待つばかりとなったが、折から全世界を震撼させたロバート・ケネディ上院議員の暗殺事件が発生、ワシントンに旅装を解いたばかりの能楽団の公演日程の変更が推測され、米国内の公演がどうなるのかなどと心配していたが、6月8日文芸顧問河竹登志夫氏より第一報が届いた。
河竹登志夫氏より(抜粋)
日付の上ではつい一昨日夕刻に羽田をたったことになっていますが、時差のため、ちょっと寝たかと思うと、同じ日の朝が来ると言う空の長旅。まだなんとなく本来のペースに乗つていないような感じながら、まずは皆元気です。
しかし到着早々のこの二日間は、予想もしなかった不祥事件発生のため、決して平穏ではありませんでした。昨日未明のロバート・ケネディ暗殺事件。いや昨日はまだ未遂で、どうやら一命は取りとめるらしいとのニュースでしたから、不安を抱きながらも、30度をこす暑さの中を、午後は日米協会の好意によるバス見学を楽しんだのでした。
ところが今朝4時40分(ワシントン時間)ケネディー氏ついになくなるーで、一時は当市とニューオリンズの公演は全面的に中止を覚悟しなければならない有様。刻々に変わる事態の中でロビーに、団長室に、と緊急の打ち合わせや状況報告が何度行われたことか。
そしてようやく夕刻に至って、今日の初日の中止は止むを得ぬが、そのかわり明日は7時と9時の2回A.Bプロを行うことに決定しました。
このような事態の中で終始にこやかな温容を崩さず、慎重にして機敏、冷静そのものに大使館その他と連絡を取りつつ適切な処置をとられた鈴木団長には、今更失礼な言い方ですが一同ますます尊敬と信頼を深くしたのでした。文化芸術に対する深いご理解と愛情が実に暖かく感じられます。
そしてこの団長の意を体して直ちにてきぱきとこの難しい状況をさばき、団員全部の方々に明快迅速に指示し、統一を図っていく宗家元正氏の見事な頭脳と手腕・人柄には、これまた失礼な申しようですが、これまで個人的によく存じ上げなかった門外漢の私も、つくづく感服した次第です。団員各位の熱誠な一致協力ぶりは、もはや他言を要さないと思います。
ともあれ到着早々多事多難だった2日は、こうして一同の努力によってまずまず最善の結果に至り、今夕の大使レセプションには明るい気持ちで臨むことができたのは幸いでした。
その帰りのバスの中でケネディ氏の国葬当日のニューオリンズ公演の可否につき、鈴木団長から「現地では熱心に公演を希望しています。下田大使も、現地が熱望しているのなら単なる娯楽ではなく、文化交流と言う使命を持つ能楽団なのですから差し支えない、と判断されたので、公演は予定通り行えることが確実になりました」と一同にお話がありました。この時車中に拍手が起こったのも当然と言えましょう。
まずはワシントンよりの第一報まで。6月6日夜」
能楽団一同(左から5人めが登志夫)。
レセプションにて。
「観世」より
「河竹登志夫氏より第2便
使節団の初日、ケネディーの椿事のため、団長以下かってない苦労を体験しただけに、今日の初日の成功は印象的であったと言えましょう。
国務省の講堂は新しくて音響的にも、雰囲気的にも、最高級と言えるものでした。しかし、なにぶんにも奥行きがなく、舞台も楽屋も無理が多くて演者の方々の苦心は並大抵ではなかったようです。
各プロの初めに鈴木団長の講話(時間がなくて2分)があって、満員とは言えないが80%埋めた観客が1つ心になったのでした。(80%と申しましたがケネディ事件といいこれは最高なのです)
Aプロ隅田川、棒しばり、葵上
Bプロ恋重荷、瓜盗人、船弁慶
終わったのは11時過ぎでした。全くよくこんな緊急な事態の中で、2部制で、しかもこの時間に…、これは本当によくやれたと思います。
KBSで作ってくれたアンケートもよく集まりました。その統計は私に任せてください。では次はニューオーリンズから 6月8日記」

翌年発行された「アメリカ、メキシコの公演ーその記録と反響ー」に、
「今回の海外公演にあたっては全曲とも60分以内の特殊演出をすることになっていて,これに解説が入り、1回の催しを2時間40分に収めることになっていた。それを2部制にしたのでさらに短縮、1公演を1時間40分に詰めることになったので、演目を一番にしてはとの意見もあったが、無理をしても予定通り実施することになったのである。宗家のもとに関係者数名が集まり鳩首検討を重ねる。
Aプロ7時の開演となり,8時50分ごろに終わり10分休憩、観客入れ替わり、9時5分Bプロ開演という慌ただしさであった。この無理な時間短縮の演出によって1曲の山場、推移、展開、緩急に変化が少なく、平面的になってしまい、演者自身が何を演じているか分からなくなったと感じていられる位であったから、観客にどのような影響を与えたものであろう」(事務局の古藤文三氏の記事)が載っています。
登志夫は日本で気をもんでいる関係者の方に、なんとか1日目を無事終えたことを報告していますが、無理なスケジュールで、やはりケネディ暗殺事件は、能楽団にも多大な影響を与えたのでした。苦渋の選択で何とか初日を迎えたわけです。こんな経験は二度となかったことでしょう。
1969年3月発行。
「観世」より
「河竹登志夫氏より第3便
毎日32度を超すこのニューオーリンズもホテルと劇場は冷房完備で過ごしよく、何より住民が南国的で明るく、人なつこく、団員一同ものびのびした気持ちで、短いながら楽しい滞在と公演が行えたと言って良いでしょう。
今日は7時半からの開演に先立ち、主催者側から名誉市民の賞状と小さい金のメダル(純金ではありません)が演者一同に贈られました。一同は羽織袴に威儀を正して舞台に整列、記念写真も撮られ、1900余の客席を8分通り埋めた観客の盛んな拍手を浴び、なかなか印象的でした。
舞台は講堂なので、やはり奥行きが狭く、楽屋らしい楽屋がなくて皆さんは大変御不自由でしたが。
能一般と3曲目について16 、7分つたない英語ながら私が解説をしました。
とにかく、時間も日本で稽古してあった通り、かなりたっぷり演じられたためもあって、成果はもちろんワシントンよりも格段に良く、観客もずっと素直な反応を示す様が、よく分かりました。
「恋重荷」の後、俳優だと言う若いヒゲを生やした髪のもじゃもじゃの青年が、ギューッと握手して「じつに感激した。涙が出て仕方がなかった、、、」と何度も繰り返していました。
藤九郎、右近両氏の「瓜盗人」も棒縛より難しい演目で心配しましたが、これも実にしばしば哄笑、大拍手で、誰にも喜ばれたようです。
「船弁慶」は予定変更のここに限り前シテを六郎師、後シテを元正師が演じました。幽玄とダイナミックな動きの、しかも劇的展開が、西洋人にも適しており、終演後は盛んな拍手で、まずは大成功裡に引き揚げることができた次第です。さて、明日はいよいよ本命のメキシコ行きです。まずはご報告まで 9日、記」

アンケートの採集風景(ニューオリンズ)。
梅若六郎氏と。
「観世」に観世元正氏の日誌形式の報告がありますので抜粋します。
「ただいまメキシコシティー、12日朝です。(ここは海抜2250メートル)心配した空気の薄さは、私はあまり感じません。でも着いた夜に2、3人軽い高山病にかかったようです。
極度の乾燥地であり、能面の表面変化、小鼓等の皮など心配をしていたが、ちょうど雨期で毎夕、スコールのように降るのでほとんど日本と変わらない調子だった。だが、舞台の照明を計算に入れなかったので、ちょっと小鼓が張りすぎて、明日は皮を変えることにした。それと酸素が平時に比べ20%少なく、謡、舞はどうかと思ったが気持ちの問題で、そんなに苦しい感じはしなかった。
ただ口の中の水分が少なくなって、これは何か発声に研究を要するのではないか。ただ楽屋に2カ所酸素ボンベを用意してくださったので、終わって面をとるとこれを吸って呼吸を整えた。
写真は、「出勤前に酸素吸入する観世元昭氏(右)と藤波順三郎氏」。
前からの課題であったアンコールは、観客の食い入るような目、時間の停止したような状態が留拍子を踏み、全員が幕に入るまで続き、それから割れるような拍手で、かえって慣れないことをやってせっかくの余韻を壊してはと思い中止した。
午後12時、楽屋のボスにグラッセスといい、ホテルへ歩いて帰ったが、今夜は感激でなかなか寝られないだろう。
15日、今日からお客さんの希望でアンコールを始めた。
今日は一般人、学生さんで感情を遠慮なしに出す観客なので、全員退場の後、シテのみ面、頭を取り、橋掛かりで一礼する簡単なものだったが、大変に満足した様子だった。大勢のお客さんの情熱に心晴れる気持ちだ。
鈴木団長も楽屋で終演後全員に感謝の言葉を述べられた。全員も思わず団長に拍手を送り喜びの極みでした。ホテルへ帰り若手と音楽広場へ行きビールを飲み乾杯、ラ・マラゲーニャ、ククルッククク、アイ・アイ・アイをリクエストして、大喜びの写真です。」
写真は午前2時、メキシコ音楽広場での一行。右より、浅見、上田、井上、宗家、安福、藤井、林の各師。
メキシコの新聞に掲載された能公演のポスター。

河竹登志夫 OFFICIAL SITE

演劇研究家・河竹登志夫(1924-2013)、登志夫の父・河竹繁俊(1889-1967)、曽祖父の河竹黙阿弥(1816-1893)     江戸から平成に続いた河竹家三人を紹介するサイトです。(http//www.kawatake.online) (※登志夫の著作権は、日本文藝家協会に全面委託しています。写真・画像等の無断転載はご遠慮願います。)