切抜帳5/能楽海外公演に同行②

前回ブログ「能楽海外公演に同行①」でのメキシコシティーでの4回の公演は予想以上の成功でした。
開演の前日、テレビで30分間の紹介が行われたことで、前宣伝にもなり、意外に観客が動員されたようです。その時の生放送は、何の打ち合わせもなく、一緒に出る若い2世の学者さんも愉快な人でしたが、時刻ギリギリにスタジオにやってくるという呑気さ。挨拶などして話しているうちに、脇のテレビを見るともう始まっていて、自分が写っているのでびっくりしたそうです。のんびりした、出たとこ勝負のようなお国柄のようでした。裏を返せば事務的にはなかなか大変だったようです。


6月18日からの2回の公演はメキシコ第二の都市、メキシコの京都と言われているグアダラハラでした。その歓迎ぶりはメキシコ市よりずっと熱心で、町中に能のポスターが貼られていました。
こちらは公演が行われたテアトロ・デゴリアード。
「アメリカ・メキシコ能公演」の登志夫の総論より抜粋すると、
「劇場テアトロ・デゴリアードは、120年前にイタリアの技師によって建てられて、スカラ座あるいはボリショイ劇場などと同系の華麗なオペラ座でした。収容人数は1250で2日とも大入で5階までいっぱい。観客も飾らない、しかし知的で芸術愛好家らしい人々で、暗黙ながら舞台と客席のなんとなくしっくり溶け合った空気が肌に感じられた。ここでも観客の熱心な拍手のアンコールに応えた。日本の作法になくても外国公演においては、求められればあっていいと思う。こんな具合で、はじめ出鼻をくじかれた形だった能公演も、本命のメキシコでは予想以上の成果を上げ、明るい気分でアメリカに戻ることができた。
ロサンゼルスとホノルルは日系人が多く、ことにホノルルは超満員のうち9分通りが日系人であった。したがってその反応は特記するまでもない。サンフランシスコは半分よりやや多くがアメリカ人だったように思う。ここははじめは入りを心配していたらしいが、当日の客も多く、まったくの満員で、かなり多くの人が入場できずに帰ったほど。舞台の反応はここが一番活発だったように思う。またこの3都市ともメキシコの例に従い、解説を各演目ごとに5から7分ぐらい行うこととし、ハワイ大学のオルトラーニ教授と私がそれを担当したのである。」

6月25日のホノルル公演を最後に、アメリカ、メキシコの7都市で、合計12回の公演を無事終えました。重要無形文化財保持者12名、芸術院会員1名を含む合計31名の、流派も違う方々の集まりで、日本では考えられない、統率の難しい編成の、豪華な能楽団でした。
「アメリカ・メキシコ能公演」に、浅見重弘氏のこんな感想文があります。
「この都度の公演で発表されたメンバーを見て少し躊躇した。というのはその内容がいわゆるお偉方が多く、若い人が大変少なく、また普段あまりお付き合いのない関西の方が数名加わっておられること。つまり軍隊で言えば将校が多すぎ兵隊が少ない部隊である。したがって年配からいって小生は下級下士官に相当する。これはなかなか大変な任務だと思わず褌を〆め直した。これは偽らざる気持ちだった。ところが第1回、2回と公演が進むにつれ、自分の取り越し苦労が無駄だったことがわかってきた。大きな重い装束用のトランク数個の出し入れも、皆が責任を持って手順よく協力した。装置係の方があの暑さの中で汗びっしょりになって舞台の拭き掃除している姿は全く真剣だった。
元老の方々も装束付けは勿論、幕開けまでしてくださったことも忘れられない光景であった。しかもその舞台は国内において催す地方演能のどこよりはるかに立派なものであった。宗家はじめ団員各自が積極的に気を使い団結に心がけたことが、今回のこの難事業を無事に、しかも盛会に終わらせることができたものと思う。帰国後団員だった人々に会うと何とも言えぬ親しみを感じ言葉もなくただ握手したく手を差し伸ばすのである。」
初めての国や場所でのいろいろな困難を、宗家を中心に一致団結して乗り越えて成功した喜びが書かれています。全員の気持ちだったと思います。
登志夫からの良子への手紙にも、「若いながら家元の元正氏はさすがに立派な人間、これには感服、何度か夜も飲んだが、気さくでもあり、気があいます」と、畏友を見つけた喜びを書いてきています。

こちらは能海外公演について雑誌に寄せた抜き刷り。下は、雑誌への寄稿一覧と、掲載誌より。

雑誌掲載文。

新聞記事一覧。

「アメリカ・メキシコの公演」に掲載のアンケートの記録。

9月、「能」への掲載文。

メキシコ土産のカエルの置物(15センチ× 15センチ)。日本の男物の長襦袢にそっくりな絵柄で、大切にしていました。

家族への便り。次女が生まれてすぐの出発でした。

長女へのはがき。長女は3歳。パパ、ママではなく、お父さんお母さんと呼んでほしいことを伝えています。残念ながら、実際は小学校高学年までパパママ呼びだったと思います。
ホノルルで。短い滞在時間でしたが、どん欲にプールや海水浴を楽しんだようで、日焼けで真っ赤になって、帰国当日は痛くてお風呂に入れませんでした。

河竹登志夫 OFFICIAL SITE

演劇研究家・河竹登志夫(1924-2013)、登志夫の父・河竹繁俊(1889-1967)、曽祖父の河竹黙阿弥(1816-1893)     江戸から平成に続いた河竹家三人を紹介するサイトです。(http//www.kawatake.online) (※登志夫の著作権は、日本文藝家協会に全面委託しています。写真・画像等の無断転載はご遠慮願います。)