歌舞伎座筋書へのたくさんの寄稿①

登志夫と歌舞伎座とのお付き合いはいつからだったでしょう。

このHPの「雑誌・新聞」記録を見ると、1961年5月「南北のおもしろさ」が一番最初の歌舞伎座筋書への寄稿です。登志夫が37歳の時でした。この時は、鶴屋南北作の「謎帯一寸徳兵衛」の補綴者として登場しています。

その後、亡くなるまで、51年間に渡り、たくさんの文章を寄せました。年に一度のこともあれば、連載をもったことも何年かありましたし、文章ではなく扉絵を1年描いたこともありました。
お次は、63年3月には「島ちどり」の上演に寄せて。初めて黙阿弥のことで寄稿です。
さてその次は、66年1月には「四千両」の上演に寄せて。
同年11月「幕末の孤影」は、「天衣紛上野初花(そばやと寮)」の上演に寄せて。
翌年67年4月は「奥庭と諏訪の七不思議」。これは「本朝廿四孝」に寄せて。
同年9月「ふしぎな大芝居」、これは「新薄雪物語」について。
翌68年4月「歌舞伎・この百年」。このときは明治維新100年でもあったのでしょうか。
作品についてのこと以外でも、菊五郎さん襲名のときのお祝い的寄稿などもありました。


晩年の筋書寄稿は単発の場合、大体が黙阿弥ものを上演するときでした。「新聞・雑誌」の記録を見てもわかるのですが、登志夫の原稿の守備範囲は大変広く、若いころはどんな注文がきても応じていたように見えます。それが自分の勉強のため、と考えているかのようです。とくに若いころは、歌舞伎だけでなく、あらゆる演劇の評を書きましたし、いろいろな劇場のプロにも書いていました。歌舞伎座の場合、担当者は「黙阿弥ものなら河竹先生」という感じで注文し、黙阿弥ものは大変よくかかりますので、それだけでも年に数回登場することになる場合もあり、そのほかの件は他の執筆者に、というふうになっていたのではないでしょうか。

南北についてはもちろん、十種香や新薄雪のことも、とても充実した内容を寄せていますので、黙阿弥ばかりではもったいない、、と思ってしまいます。筋書のように長く続いているものは、たまには過去のちゃんとした記事を引っ張り出して読ませてくれたら面白いのに、とよく思います。

さて、今回は途中を全部飛ばします。最後の寄稿は、2013年4月の杮葺落公演の際でした。タイトルは「二元の道」。歌舞伎には、過去を大事にすることと、新しい創造というふたつの道が必要だと言っています。

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演劇研究家・河竹登志夫(1924-2013)、登志夫の父・河竹繁俊(1889-1967)、曽祖父の河竹黙阿弥(1816-1893)     江戸から平成に続いた河竹家三人を紹介するサイトです。(http//www.kawatake.online) (※登志夫の著作権は、日本文藝家協会に全面委託しています。写真・画像等の無断転載はご遠慮願います。)