歌舞伎座筋書へのたくさんの寄稿①
登志夫と歌舞伎座とのお付き合いはいつからだったでしょう。
このHPの「雑誌・新聞」記録を見ると、1961年5月「南北のおもしろさ」が一番最初の歌舞伎座筋書への寄稿です。登志夫が37歳の時でした。この時は、鶴屋南北作の「謎帯一寸徳兵衛」の補綴者として登場しています。
晩年の筋書寄稿は単発の場合、大体が黙阿弥ものを上演するときでした。「新聞・雑誌」の記録を見てもわかるのですが、登志夫の原稿の守備範囲は大変広く、若いころはどんな注文がきても応じていたように見えます。それが自分の勉強のため、と考えているかのようです。とくに若いころは、歌舞伎だけでなく、あらゆる演劇の評を書きましたし、いろいろな劇場のプロにも書いていました。歌舞伎座の場合、担当者は「黙阿弥ものなら河竹先生」という感じで注文し、黙阿弥ものは大変よくかかりますので、それだけでも年に数回登場することになる場合もあり、そのほかの件は他の執筆者に、というふうになっていたのではないでしょうか。
南北についてはもちろん、十種香や新薄雪のことも、とても充実した内容を寄せていますので、黙阿弥ばかりではもったいない、、と思ってしまいます。筋書のように長く続いているものは、たまには過去のちゃんとした記事を引っ張り出して読ませてくれたら面白いのに、とよく思います。
さて、今回は途中を全部飛ばします。最後の寄稿は、2013年4月の杮葺落公演の際でした。タイトルは「二元の道」。歌舞伎には、過去を大事にすることと、新しい創造というふたつの道が必要だと言っています。
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