60年前の2月の記事より/八代目幸四郎東宝へ

登志夫の昔の貼り込み帳から、60年前の2月の記事を紹介します。

昭和36(1961)年の日刊スポーツです。「大揺れの演劇界」「幸四郎も東宝入り」と大きな見出しの記事の左に、「『現代』を求める俳優」として36歳の登志夫が寄稿しています。

「染五郎、万之助兄弟が東宝と契約して話題になったと思ったら、その後いく日もたたないうち、こんどは父の幸四郎もやはり近く契約を取りかわすのだという。今月は勘三郎が東宝へ出ており、そのかわり歌舞伎座には越路吹雪がいる。藤間紫や山田五十鈴の歌舞伎出演はいうに及ばず、来月は新派でも、市川翠扇が市川宗家の反対を押し切って大阪新歌舞伎座で三波春夫と共演し、梅田コマでは霧立のぼるが越路と同じ舞台に立つとか。中でも先代幸四郎と吉右衛門の直下流にある名門幸四郎父子の動きはなんといっても大きい。

が、こうした動きはむしろことし急に起こったわけでなく、数年前から次第にテンポを早めつつあった商業演劇界の底流の変化が、ようやく表面化してきたものといっていい。去年の幸四郎の『オセロー』や松緑の『シラノ』の試み、守屋浩、島倉千代子の歌舞伎座出演などはその前兆で、しかもそれらが純歌舞伎を圧して大入りだったのが、いっそうこの傾向を早めたのだろう。こうした動きの底には松竹の興行上、制度上の欠陥に対する東宝の契約制の合理性(この点私はくわしくは知らないが)や、東宝の経営状態の、少なくとも、現在における優位ということもあろうが、単に松竹対東宝の引き抜き合戦という事態ではなく、もっと本質的なものが作用していると思われる。

俳優は他のジャンルの俳優と共演し、映画やテレビに出るというような体験から、十分現代の演劇に生きられるという自信を持った。少なくとも今はそう感じているであろう。そして彼らは歌舞伎がその八割まで観光客的団体に占められていることを知っており、それがとうてい現代生活の中での真の大衆劇であり得ない現状と将来を予感している。当然生活問題にもかかわってくる。自分たちも『現代に生きる俳優』でなければ~そういう希望と意向を強めてきたということ、それが根本動因ではないだろうか。

そしてもっと広く考えるとき、ようやく現代大劇場演劇が、長い間民衆の中に生きてきた伝統演劇からの参加を求め、最も現代劇な、たとえばミュージカルの人々との交流の中から新しい民衆のための演劇を創造していこうとする歴史段階に踏み出しはじめたといえるかもしれない。日本現代劇のカオスの時代がはじまったのである。

しかし歌舞伎の古典芸術としての価値はまた別問題だ。歌舞伎俳優はそれまでも失い去ってもらいたくない。同時に彼らは、今は少なくとも名門の歌舞伎俳優としてのスター・バリューを第一に買われているのではないかということも心しておいてほしい。自分たちにもやれるというだけでなく、自分たちでなければやれないものを作ってほしいのである。それには正しい企画とすぐれた作が与えられることが重要である。安易なものをやっているうちに、歌舞伎の土台までも洗い流されてしまわないように。現代に生きるということは形の新しいものだけをやり、範囲を広げることだけではない。伝統をふまえた俳優であることの本当の自覚の上に立って、その参加が現代演劇を深く高めていくように、それだけの責任と抱負をつねに胸にひそめていてほしいと思うのである。」

登志夫がこの時代に書いていることは、今にも通じる気がします。東宝へいった歌舞伎俳優たちは、結局自分を活かしきれず、ほとんどの人が松竹に戻るわけですが、俳優は松竹と契約を交わしているわけでもなく、外部の芝居に出るのは自由です。舞台に映画にテレビ…、最近では歌舞伎俳優をテレビで見ない日はないくらいです。歌舞伎役者がテレビに出たりすることに苦言を呈するような大御所も今はいません。みなさん、テレビなどに出演するのは、歌舞伎を見に来てもらうため、と口をそろえておっしゃっていますので、その成果がどんどん出てくるといいのですが!

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演劇研究家・河竹登志夫(1924-2013)、登志夫の父・河竹繁俊(1889-1967)、曽祖父の河竹黙阿弥(1816-1893)     江戸から平成に続いた河竹家三人を紹介するサイトです。(http//www.kawatake.online) (※登志夫の著作権は、日本文藝家協会に全面委託しています。写真・画像等の無断転載はご遠慮願います。)