今日は坪内逍遙の命日です。
逍遙が亡くなったのは昭和10年2月28日。こちらの位牌には、右二つが繁俊の両親の名前、左が妻みつの両親、真ん中の二つは逍遙夫妻の戒名が書かれています。黙阿弥家の位牌と共にうちの小さな仏壇に入っています。逍遙の存在は繁俊、みつ夫婦にとって本当の親同然の大事な存在でした。
逍遙の死について登志夫や繁俊が書いたものはたくさんありますが、本日は、登志夫著『背中の背中』(小学館スクエア)に収録された、「背中の背中」を紹介します。この本は「演劇界」に毎月書いていたエッセイをまとめたもので、これは2001年2月号に掲載されたものです。
「二月二十八日は坪内逍遙の命日。晩年をすごした熱海の双柿舎では、毎年この日に墓前祭と記念の催しが行われる。今年は早大オープンカレッジに逍遙についての連続講座の企てもあり、私も『黙阿弥と逍遙』を一席うかがう予定だ。
逍遙は六十六年前のその日の朝十時二十九分に、双柿舎でかぞえ七十七歳の生涯を閉じた。父・繁俊が当時の渋谷松濤の自宅で恩師逝去の報を受け、すぐ新聞社や放送局に電話していたのをおぼえている。夕刊にはどれにも、一面の左半分に大きく載った。『朝日』の見出しは『文壇の巨匠坪内逍遙博士逝く』であったとおもう。
おなじ年に忠犬ハチ公の死がおなじ規模で報じられたのをみて、小学四年の私は、どっちもおなじくらいえらいんだなと感心した。そう、私はハチ公の頭をなでたことがあるが、逍遙に頭をなでてもらった記憶もある。
あの朝熱海から逍遙の死を電話で知らせてきたのは、山田清作さんだった。何十年も逍遙身辺の雑務にあたって実直そのもの、”忠僕”という古い言葉がぴったりの老人。ときおり『富久町の山田です』と、ひどく間のびした口調で電話してきた声が耳に残っている。
その山田さんが逍遙の日常を綴った『生活余響』という手記が、河竹繁俊・柳田泉共著の詳伝『坪内逍遙』に収められている。そのなかで忘れられないのが、逍遙は『どんな手紙でも必ず迅速に返事を出した』が、出す手紙も返事も『電光の如く筆を走らせた』という、その『電光の如く』の一句である。
逍遙の多忙さと性急さが、みごとに描破されている。すぐ返事を出すと、ひまだからとおもうのは逆で、忙しいからすぐ書くのだ。戸板康二さんがいつか、逍遙の一生は『ダイナモが唸りをあげて』回転しているようだと表現したのと、好一対の名言だとおもう。
その影響かどうか、父も手紙や返事はきわめてマメに、迅速に書いていた。そういえばこれも山田手記にみえる、万年筆にインクを入れず、『インキ壺に浸けては書き、浸けては書く癖』もそっくり。また自分はたいした不眠症でもないのに『どうも眠れん』といって、アダリンを常備していたのも、ついに外国へ行かなかったのも、今おもえば恩師逍遙の背中を見つづけていたせいかもしれない。
私は逍遙とあったのは一度だけ、それも五歳に満たないころだから知らぬにひとしいし、父の風をまねたおぼえもない。が、逍遙の達筆と悪筆とに天地雲泥の差はあるが、返事や礼状をせかせかとすぐ書く癖だけは、幸か不幸か似てしまった。
逍遙の養女で、『歌舞伎細見』の著者飯塚友一郎博士夫人となるくにさんに、『父逍遙の背中』という名著があるが、私の返事書き癖はひょっとすると”逍遙の背中の背中”の名残りかもしれない。」
登志夫は、書斎の大きな机の上に、自分の住所氏名電話番号のはいったスタンプを押した官製はがき、各種切手、手紙の重量をはかる秤などを入れた小さな引出を置いて、すぐに書けるようにスタンバイしていました。果物をもらえば、ちょっと葉書にその絵をかいたり、トレードマークのカエルの手製スタンプを押したりすることもありました。登志夫が人間好きだったかはわかりませんが、人とのやりとりをするのは好きでした。
返事の速さについては、元NHKアナウンサーの山川静夫さんが、もしかしたら自分よりも上手じゃないか、と登志夫は言っていました。山川さんも、登志夫も、原稿は手書き。今の人ならメールやライン。葉書での返事も昔の事になってきました。
こちらは登志夫から次女への葉書です。次女が知り合いからもらったファミレスのお食事券一万円分を、登志夫と二人で一度に使い切った時のことを書いていると思います。登志夫は、メインの料理をふたつと、その他もちろんお酒やおつまみの料理、次女が本気で心配するほど食べました。さらにデザートに大きなチョコのアイスクリームを注文した時にはその食欲の凄さに心底驚きました。登志夫はこんな時よく、「さぁとなったらいくらでも食べられる」と言い、戦中戦後の空腹を取り戻すかのようにお腹に入れました。ファミレスで一万円食べるというのは大変なことです。でも、この食事券、もうすぐ期限切れだったか、その日が期限最終日だったのです。この葉書によると、次女が心配するほどのこともなく、気分爽快だったと書いてあります。このファミレスはいまはもうない店で、東陽町だったか、ちょっと変な場所でした。登志夫はここから逗子に帰り、翌日電光の如く、お礼の葉書を書いています。家族にもこういう心遣いを惜しみませんでした。
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