登志夫32歳、はじめてのアメリカ②ウェストサイドストーリー

登志夫の「わたしの履歴書」に「アメリカ行き~安下宿から劇場通い 『ウェストサイド…』初演圧巻」という見出しの回がありますので、登志夫が「わたしの履歴書」を執筆した最晩年、このアメリカ行きを人生でどんなふうにとらえていたか①とあまり重複しない部分を引用します。

「数十回海外を旅し、住んでもきたが、原点は昭和三十二(1957)年のアメリカ行きだった。当時ライシャワー博士が所長だったハーバード・エンチン研究所の客員研究員として、一年間の赴任。その帰途二か月半、ヨーロッパからギリシャ、エジプトへと巡った。この欧米行きがなかったら、その後の国際交流の仕事はなかったろう。

両親と、離婚調停中の妻へ心を遺しながら羽田を立ったのは八月十三日の夜。JALのプロペラ機で、ハワイとの間のウェーキ島で給油、入国には十指の指紋、ジャップかと下宿を断られる、という時代だった。

(略)気のいい精肉店夫婦の営む、独身男ばかりの安下宿。韓国人、亡命ハンガリー人、アメリカ人、日本人は私一人。共同の台所で自炊だ。大型冷蔵庫には仕分けたはずの食料が時どきなくなる。犯人はいつもパン屋の運転手のパーカーだった。ならず者でみんなの鼻つまみ。だが根は善人で、なぜか親しくなった。ハーバードはボストンに近い。そのダウンタウンは危険で日本人には出入りが制限されていた。彼はそこへも私を連れていき、酒場や、巨大な裸女の舞うストリップ小屋などを案内してくれた。ホットドッグと安い地ビールとパーカーのおかげで、ありのままのアメリカを肌で知った。

(写真真ん中がパーカー、右が登志夫。クリスマスイブに。)


(略)さいわい三つあるボストンの劇場は、ブロードウェイにかける前の新作を試演する”トライアウト”の場だ。ここでは『真夜中の十二時』という芝居で、往年のギャング映画で名高いエドワード・G・ロビンソンの、まともな役の名演技を眼近に見た。

ニューヨークへも頻々と往復、オフブロードウェイの小劇場も見て回った。深夜に女性が一人で歩いても平気という、アメリカ最良の時代だった。中で最大の収穫は、『ウェストサイドストーリー』の初演を見たことだ。満員で立ち見だったが、全く時を忘れて見入った。曲や歌はもとより、ダイナミックな演出に圧倒され続けた。さっそく『西街物語』の題で、東京新聞にその感動を書き送った。この舞台については、それが日本最初の記事だったかもしれない。

この劇は誰も知るように、『ロミオとジュリエット』の応用だ。実はこれは日本にもある。文楽、歌舞伎の名作『妹背山婦女庭訓』吉野川の場。敵対する両家の息子と娘の悲恋の果ての死……。だが若い二人の死に至る経緯は違う。運命の悪戯による西洋のドラマと、親子の縁は主従の縁より軽いとする封建道徳ゆえの、江戸演劇との根本的な違い。対比による比較演劇の方法にとって、『ウェストサイドストーリー』は貴重な一石となった。」

写真は、昭和33(1958)年1月29日の東京新聞。「ウェストサイドストーリー」が日本に初めて紹介された記事ではないかと、登志夫は言っていました。登志夫は「西街物語」と訳して紹介しています。

5月21日の同紙で、「マイフェアレディ」のことを書くように注文されたような内容ですが、やはり最後に、「ウェストサイドストーリー」のほうがずっと面白かったと付け加えています。

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演劇研究家・河竹登志夫(1924-2013)、登志夫の父・河竹繁俊(1889-1967)、曽祖父の河竹黙阿弥(1816-1893)     江戸から平成に続いた河竹家三人を紹介するサイトです。(http//www.kawatake.online) (※登志夫の著作権は、日本文藝家協会に全面委託しています。写真・画像等の無断転載はご遠慮願います。)