うちの正月

しばらく逍遙と繁俊のことばかりでした。本日は、登志夫の書いた、うちのお正月について、登志夫の著書「包丁のある書斎」収録の「うちの正月」というエッセイのご紹介です。

「ひさしぶりに自宅で水いらず、暖かい、のどやかな正月だった。

大晦日は夜に入ってやっと、とうに締切りのすぎた『文学』への論文が上がったので、めずらしくテレビで紅白歌合戦と忠臣蔵を交互に見、除夜風景を一瞥して風呂に入る。と、いつもは宵の口から森閑としたこの披露山にも、遠い祭のようなささめきがきこえる。初詣での人声と足音だ。

その間を刻むように、丘や森をこえてあちこちからゴーン、カーンと、とりどりの鐘の音……。

過飲過食でやや重い身体を湯舟にのばす。ポリ風呂なのがいまいちだが、居ながらにして鎌倉五山の除夜の鐘を聴くとは。こんな幽雅な初湯は逗子へきて十三年、どころか、あくせく人生の私には初めてではなかったか。

うちは黙阿弥やその娘すなわち私の祖母糸女いらい、衣食住すべて芝居界の華やかなイメージとは裏腹に質素である。『門徒物知らず』のさいたるもので、正月も江戸の昔から、門松もお飾りもしない。

お供えだけは親類・門葉とのあいだにやりとりがあったとかで、父の代にも渋谷住まいのころは飾ったが、戦中からはとだえたまま。

屠蘇と雑煮とおせちは辛うじて続いている。食い意地が人並だからだろう。いや、私の生まれる前の糸女の代には屠蘇はなかったという。倹約一途な独身老女の家の酒なし正月。思っただけでも味気ない。ニラミ菓子と称する飾りっぱなしの干菓子だけ。

拙著『作者の家』にも書いたが、これでは酒好きの久保田万太郎が年賀に来ても、飲めない二代目左團次を犠牲に残して早々に退去したというのは、もっともだ。

私の屠蘇は酒七ミリン三ぐらい。酒器は鍚製で三つ重ねの盃は松竹梅。子供のころはひどく上等の道具にみえたが、案外の安物らしい。黒くなった桐箱に母の手で『新調昭和五年十二月』とある。大震災で本所を焼け出されてから間もないころだから、いいものが買えるはずもなかったろう。が、買い直す気など、さらさらない。

床の間は糸女の妹で柴田是真門下だった島女の描いた『日の出』の軸に、妻が無造作に活けた花。それに海老蔵こと七代目團十郎にもらったと思われる、大きな朱塗りの海老型菓子器。ニラミ菓子用だったものか。

おせちは娘を助手に、大晦日一日かけた妻の手製。今年は錦玉子、竹の子、ヤツガシラ、黒豆などに進歩が認められた。煮物は年増になるほど上達するようだ。娘らに人気は鴨ロースト。これや温泉玉子やエビフライなどは、昔はなかった。おせちも世につれ、である。

私の受け持ちは例のごとくサシミ。ブリは今年は天然ものが高いので、六分の一の値の養殖ものでがまんした。が、どうにも格段にちがう。

『来年は四半分でいいから、やっぱり天然ものにするか』

と妻と顔を見合わせた。

だが待てよ。そうなると魚をおろす快感は激減する。包丁のつかい初めの甲斐がない。さあ困った、どうしたものか、来年は……。む、鬼め、笑ったな。」



このエッセイは、日経新聞に1986(昭和61)年から約1年半、挿絵入りで毎週連載したもので、ここに書いている正月は、1987年のことになります。逗子の披露山に住んでいたころの懐かしい正月風景です。正月は遅めに起きて、その時いる家族で祝いました。登志夫が厳かに屠蘇をみんなにつぎ、口をつける前に初春を寿ぐ言葉を言おうとしますが、すぐにワイワイ騒ぎになるので、いつも長い言葉は言えませんでした。せいぜい、みんな健康に、と言うくらいだったと思います。

ちなみに、この時の紅白歌合戦、キャプテンは紅組斉藤由貴、白組加山雄三、荻野目洋子の「ダンシング・ヒーロー」、少年隊の「仮面舞踏会」からはじまり、トリは石川さゆり「天城越え」、森進一「ゆうすげの恋」でした。松田聖子はこのとき「瑠璃色の地球」を歌っていますが、昨日の紅白でも同じ曲を2020年バージョンとして披露していました。石川さゆりも今年もまた「天城越え」。そういえば、登志夫は石川さゆりが好きでした。この頃はまだ、紅白の前にレコード大賞があり、9時からでしたから、いまより濃かったですね。

このエッセイ、新聞連載だったので、読者からのお便りが時々日経新聞を通して届くこともありました。この、「ポリ風呂なのがいまいちだが」というくだりを読んだ読者の方が、お気の毒なので、うちにあるヒノキ風呂を差し上げますとお申し出くださったそうです。しかし、ありがたいお話ではありますが、ヒノキ風呂はお手入れが大変なので万事いろいろ手をかけない主義の我が家にはポリ風呂がぴったりだったので、丁重にご辞退のお手紙を書いたという後日談がありました。ああもったいない!



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演劇研究家・河竹登志夫(1924-2013)、登志夫の父・河竹繁俊(1889-1967)、曽祖父の河竹黙阿弥(1816-1893)     江戸から平成に続いた河竹家三人を紹介するサイトです。(http//www.kawatake.online) (※登志夫の著作権は、日本文藝家協会に全面委託しています。写真・画像等の無断転載はご遠慮願います。)