河竹家と震災⑩焼け残ったもの②八角時計
こちらは、震災時、庭に移動した箪笥の中にあって焼け残った時計。繁俊は、『ずいひつ牛歩七十年』の中でこの時計について書いています。
「まったく文字どおりに、古色蒼然という形容詞のあてはまるのが黙阿弥のつかっていた八角時計である。
その、振り子のない、柱がけ用の八角時計は、もうこんにちでは、博物館ならいざ知らず、どこへ行ったって見られまい。明治年間も三十年頃まで、ひろく使われていたものだったのではなかろうか。(略)
この時計は、わたくしがおぼえてからも、台所の柱にかかっていたが、もう寿命が尽きたので、修繕はきかないと、時計屋さんにことわられたので、三つ重ねの用箪笥の中に入れておいたのである。つまり偶然に助かって、黙阿弥遺愛(?)ということになったわけである。
げんに早大の演劇博物館で、黙阿弥の六十年記念展覧会も開いてくれても、稿本や絵看板の下絵や手紙のような遺墨類のほかは、このみすぼらしい八角時計が隅っこのほうで光っていたのだ。
さて、この八角時計は、とにかく古色蒼然と言えば味があるが、じつは、うすぎたない時代ものだ。屑屋に見せたら、こみにしても十円とはふみそうもない。が、明治の初年に清元延寿太夫が黙阿弥に贈ってよこしたものだとは、年寄り(←糸女のこと)から聴いた。この延寿太夫は先々代の四代目で、名人お葉の亭主、後に延寿翁を称し明治三十七年になくなった。清元の名曲の『いざよい』『三千歳』『かりがね』などを初演し、黙阿弥とはコンビになっていたから、かなり近しい交際だったらしい。同じく震災で焼けた、桑の長火鉢も延寿翁が金に困って持ち込んだものだったそうだ。
何の飾りもない、平凡な八角時計。文字盤も卵色にどんよりとすすけて、ところどころはげちょろけている。一日巻きで、ねじを巻く穴が両眼のように、不体裁にあいている。秒針もあるが十五秒毎に数字が入れてある。
ひとの話では、昔は交番で使ったもの、また航海用にも用いられたとあるが、真鍮製の金具も分厚で、堅牢一式の作りかただ。むりに因縁をくっつければ、黙阿弥の手堅い人間と作風を思わせもする。機械はとまっていても、上部左側には螺線が出ていて、それをちょいと軽く引けば、チンチンチンとかわいい音をたてて鳴る。たしか昨年の春ころ、子供が珍しがって、知り合いの時計屋に見せたら、舶来品で見るも嬉しいから、ぜひなおさせて見させてくれというので、一二か月はなおってきて、チンチンと、三時なら三つ、七時なら七つ打っていた。
裏返しにして見ると製造元で貼付したままの、大きな粗末なレッテルが大半破れてくっついている。英字で毎日巻だとだけは読める。また面白いのは、明治二十年ごろから、磨いたり、油をさしたりした度ごとの年月日と修繕した店名とを書き入れた、小さな紙片が十二、三枚もはりつけてあることだ。
文字盤を取り付けてある三本のネジ釘をはずしてみると、機械は全部真鍮製で、SETH THOMAS THOMASTON CONN と彫刻してある。どういう会社なのかわからない。時計ファンに一度見てもらって、説明を聞きたいと思っている。」
この文章は、昭和17年4月の文藝春秋誌に寄稿したものです。修繕したことや、油をさした記録をはりつけておくところなど、当時の人たちが丁寧に物を扱っていた様子が感じられます。黙阿弥家の台所で時を刻んだこの時計、繁俊はうすぎたない時代ものと言っていますが、この会社名をネットで検索すると、ちゃんと出てきました。セス・トーマスとは、米国の時計職人の名前で、1785年~1859年に生きていた人なので、黙阿弥より30歳くらい年上です。大量生産のパイオニアと書いてあります。この会社の時計は、1800年代後半には日本にたくさん輸入されていたようで、つい1980年まで続いていた会社のようです。オフィスや役所のようなところで用いられたようで、繁俊の言うように、そう高級品でもないようです。現在は、国立劇場の資料館に寄贈されています。
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