切抜帳13より④読売新聞「自伝抄」16~20回/デカダン早大生

早稲田の芸術科演劇専攻に入った昭和23年6月、太宰治の入水のニュースを有楽町の「お喜代」で聞いています(うちには「新ハムレット」「斜陽」「如是我聞」など、登志夫が当時買った初版本が残っています)。新宿の尾津組とか和田組のマーケット、「五十鈴」「火の車」「自由学校」などの居酒屋…純理から人間臭い世界での流連荒亡。俗悪でデカダン的と書いていますが、本望とも受け取れます。

太宰の初版本。戦後すぐということもあってか、粗悪な紙、製本です。

話は少しずれますが、「新ハムレット」には、坪内逍遙のハムレットの歌舞伎調の訳を茶化すような部分がありますが、それについて先に太宰がエクスキューズしているのが面白く、登志夫は何かの折にこれを引用して書いたことがありました。太宰が「坪内博士のお弟子も怒ってはいけない」と書いているのが、そこに繁俊も含まれているようにも思えて面白く感じます。
早稲田大学文学部文学科芸術学専攻3年の時の卒業論文です。
「演劇における場の理論序説」吉村俊雄(当時これが本名で、昭和24年12月2日に吉村から河竹に改姓しました。)/原稿用紙475枚


登志夫が早大に入り直して、演劇の研究を始めた頃、小平先生はアメリカへ発たれました。30年ぶりに再会したときに、芸術選奨を受けた『比較演劇学』(正続)を謹呈しました。「かつて先生のゼミで学んだ場の理論の概念を原点とするこの論集を、せめて恩返しの一端にと思ったのである」と他のところで書いています。その時の先生からの返礼が、前回のブログ<13>の小平先生の3巻の論集です。「演劇における場の理論序説」は「続比較演劇学」(昭和49年刊)に収められています。
「ベニスの商人」の翻案歌舞伎、史上初の「天覧劇」の研究などは続いていきます。
比較学への目を開かせてくださったのは新関良三先生。「私にとって演劇研究上の師は新関先生1人である」と言っています。

真ん中が新関良三先生。左が、早稲田の大学院時代の登志夫です。

昭和32〜3年、ハーバード燕京(エンチン)研究所の招聘留学に行きます。いっさい自由な研究で、実際図書館には一度も行かず、そこでしか見られない舞台を見て過ごしたそうです。
(2021年1月27日、2月12日、6月11日、14日のブログに関連記事があります。)
1957年(昭和32年) 8月、JALプロペラ機でアメリカへ出発しました。まだ日本には外貨がなく、海外旅行は海外から招聘された人しか行けない時代でした。この大勢の見送り!
留学の帰りに、ニューヨークからヨーロッパへ渡り、後にその時のひとり旅を綴った『ヨーロッパ 歴史旅情』(昭和38年発行 人物往来社)が刊行されました。
ひとり旅をしたときにお会いしたハインツ・キンダーマン博士。この写真は後年1971年(昭和46年)の時、旧王宮の一角にあるウィーン大学の先生の研究室で。
昭和35年に文芸顧問として、史上初の欧米公演に同行して、比較論上の面白い問題をたくさん教えられました。実地に当たって実験し実証しなければダメだと感じて、いらい同行すれば必ず詳しいアンケートを集めて統計整理することにしました。この記事の時点ではオーストラリア公演までのことが書かれていますが、海外での活動はずっと続いていきます。
登志夫は普段は日記はつけませんが、海外のときには細かい記録を必ずつけていました。1958年のヨーロッパ一人旅から1996年までの約40年にわたる記録です。左側は、関連した著作です。
昭和35年(1960年)、史上初のアメリカ公演の合間にディズニーランドへ  前列中央が松竹・永山氏、右に登志夫、左に竹柴金作氏、運転席に中村勘三郎氏 
同年。6月22日、ニューヨークの千秋楽の日の記念撮影。ニューヨークシティセンターのステージにて。2列目、左から2番目が登志夫です。はじめての事だらけで、皆さん大奮闘だったそうです。
幸い大好評で、これからソ連、ヨーロッパ、オーストラリアと様々な苦労とともに歌舞伎公演を繰り広げていきます。‘’歌舞伎は旅する大使館"でした。余談ですが、オーストラリアの新聞の記事を登志夫が訳したので、登志夫の名作キャッチコピーと、何かに書かれていましたが、本人は訳しただけで、複雑な気持ちだったようです。自分からは自分のキャッチコピーとは言っていません(笑)。

この記事を書いたのは、登志夫が56才の時です。超虚弱児で生まれ、中、高等学校で健康を得て夢を持つことができ、純理の世界の美しさに憧れ、挫折、最初の結婚の破局、我が子の死、無我夢中で、演劇の世界に生きてきて、56歳。
気持ちにあるゆとりができたときに、お化けのつづらが現れて、『作者の家』を書かせた。そして、この自分史はこれから生きる"はしがき"かもしれないと言っています。
西洋流一辺倒でない、日本、東洋をも同じ比重で含み込む演劇の一般論を具体的な形で組み立てる、という至難のテーマに挑んで20数年、『演劇概論』(1978年 初版  東京大学出版会)が出版されました。
雑誌「季刊芸術」に連載し、雑誌休刊後は書き下ろしを続け、連載を始めてから5年目の昭和55年(1980年)、 8月に『作者の家』(講談社)が刊行されました。
平成3年(1991年)、「糸女」(「作者の家」が原作)の上演をきっかけに復刻再刊されました。(悠思社刊)
講談社文庫(上下)
岩波現代文庫(1部2部)

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演劇研究家・河竹登志夫(1924-2013)、登志夫の父・河竹繁俊(1889-1967)、曽祖父の河竹黙阿弥(1816-1893)     江戸から平成に続いた河竹家三人を紹介するサイトです。(http//www.kawatake.online) (※登志夫の著作権は、日本文藝家協会に全面委託しています。写真・画像等の無断転載はご遠慮願います。)