藤谷浩二の急逝①

去る10月12日、朝日新聞演劇記者、藤谷浩二が急逝しました。新聞社に30年勤め、20年演劇記者として毎日のように遅くまで劇場に通い、取材し、インタビュー記事や劇評を書きました。最後は編集委員でした。浩二の妻は、登志夫の次女ですので、登志夫も生前はずいぶん一緒に過ごしました。

53歳の若さでしたから、まだ家族はまさか、という驚きにポカンとしています。妻が外出中の脳梗塞でしたから、妻は今後も一生、自分の外出を悔やむことになるでしょう。亡くなった直後は、罪悪感で、自分の姉妹にも話すことができませんでした。藤谷家の家族と、妻と母だけで、葬儀を執り行いました。

コロナ後の生活の変化のためか、ずっと体の不調があり、それが仕事にも影響し、ストレスになっていましたが、自分がやるべきだと決めたら、人に任せようとはしませんでした。長い記者生活の間には、不本意な異動や単身赴任もありましたが、それに耐えたのは、大好きな演劇の記者に戻るためでした。本人が一番無念だったと思います。
9月29日に掲載された串田和美氏へのインタビュー記事が最後。野田秀樹氏には10月4日に取材していましたが、記事にする前に逝ってしまいました。

みんなが満足する幸せな死別などないのでしょうけれど、私がもっと早く帰っていたら。私がずっと家にいたら。ついには、私と結婚していなければもっと長生きさせられたのでは。河竹という、歌舞伎では少し知られた家の一員としてのやりづらさもあったかもしれないと、とりとめもなく考えます。
最後の日、浩二の妹が来て3人で妻の作ったご飯を食べた時、残さず美味しそうに平らげてくれたのがせめてもの妻の救いでしょうか。


家では怒ったこともなく、部屋に入り込んだ虫も殺さずにわざわざ外に逃してやるような、何に対しても優しい人でした。夫婦として20年一緒にいても、人の意見を否定せず、自分の意見を押し付けない姿勢は最初から変わることがありませんでした。可愛いがっていた犬と猫が眠る両国の回向院の墓に一緒に入りたいとよく言っていました。今頃ペットたちや、四年前に亡くなった実父や、登志夫にも再会していることでしょう。早すぎるよ、と驚かれますね。
1969年4月11日生まれ、子供の頃から記者志望でした。早大文学部時代は山登りのサークルに入っていました。(み)


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演劇研究家・河竹登志夫(1924-2013)、登志夫の父・河竹繁俊(1889-1967)、曽祖父の河竹黙阿弥(1816-1893)     江戸から平成に続いた河竹家三人を紹介するサイトです。(http//www.kawatake.online) (※登志夫の著作権は、日本文藝家協会に全面委託しています。写真・画像等の無断転載はご遠慮願います。)