切抜帳9より④(1974-1976)/小平邦彦、矢代静一、藤浪与兵衛他
1975年3月19日日経新聞「交遊抄 クニちゃん」。登志夫の東大物理時代の師・小平邦彦教授のことです。登志夫と小平先生との関係や、先生の偉大さについては、昨年8月15日のblog「登志夫の終戦/小平邦彦先生」のところで詳しく記しました。先生とは、このあと1981(昭和56)年に再会しました。
1975年6月「おもだか」に「澤瀉屋三代 訪ソ歌舞伎のころ」。「おもだか」とは、先代の猿之助さんのところの会報です。猿之助さんは出版物できちんと記録を残したい方なのでしょう、大変立派な冊子をずっと刊行されていました。これはそこに寄稿してものです。訪ソ公演のときには当時の團子さんに自分の部屋のお風呂を貸したり、将来また一緒に来ましょう、と話し合ったりとソ連滞在中は親しく過ごしました。ここでは訪ソの時の先代猿翁、段四郎について書いています。
同年8月青年座「淫乱斎英泉」プログラムに「私のみた矢代静一」。三十歳前後からのお付き合いだった矢代氏の作品と人間性について。やさしい人間性についてのエピソードがとても印象に残ります。
東芝レコード「芳村五郎治特選集」解説冊子へ、「吉村五郎治さんの人と芸」。ここに書いてある通り、歌舞伎の初アメリカ公演からのお付き合い、人間国宝となった長唄の唄方、芳村五郎治さんの人柄について。五郎治師は92歳で平成5年にご逝去、毎朝15回の腕立て伏せをされていたそうです。
同年9月16日発行早大文学部報「はじめてみた芝居」。登志夫が始めて見た芝居は、大隈講堂での「大隈重信」と「ファウスト」。これはよく、いろんなところに書いていました。
「同じ作がくり返されて、古典とか伝統とかリバイバルといわれるようになると、時代のテンポとは逆に、ずっと悠長になってくるものだ。小唄勝太郎の「島の娘」はおなじ人がうたっても、戦後晩年のは売出し当時よりはるかに間のびしていた。美空ひばりの『りんご追分』も三門博の『唄入観音経』も然り。」
懐メロの番組を見ると、本当に、昔のままのが聞きたいのに、変に演奏からわざとはずしたり、色々技巧的にされてがっかりすることがありますが、その感覚です。もっとリアリティーのある、スピードアップした時代物の芝居もみてみたいものです。
「新しい女性」同年10月号「古典芸能を見直そう 歌舞伎への招待」。
同年9月22日の読売新聞「芝居小道具造り 藤浪与兵衛 宙に浮く五代目襲名」。登志夫より2歳年下で、海外公演では同室になったり、ずいぶん親しくお付き合いした藤浪与兵衛氏が、この年5月に48歳で亡くなり、それ以来与兵衛の名前は継がれていません。猿若町生れ、東大を出て家業を継いで社長になった四代目は、大変楽しく魅力的な人柄で女性にももてたそうです。登志夫はこの記事にコメントを寄せています。
逗子の家の台所で、登志夫と与兵衛氏。命日も、登志夫が5月6日、与兵衛さんは7日と、一日違い。
同年9月TBSブリタニカジャーナルWORLD。「対談歌舞伎とオペラ」にMET前総支配人と対談。歌舞伎とオペラの類似点や、歌舞伎の大向こうのことや、マナーの違い(この頃はまだ歌舞伎座でも芝居を見ながら食べたり飲んだりしていました)、これからの観客の育て方など、興味深い話題です。
1976年2月号「浅草」に、年賀状が取り上げられています。毎年、たくさん届いた年賀状に返事を書くのが元日から数日間の仕事でした。一枚一枚干支の絵を画きました。左は俳優座機関紙「コメディアン」に「逍遙とイプセン」。
同年2月「芸団協」に「民衆のつくった義経像」。座談会です。
同年1月NHK「LIFE&STEEL」に「歌舞伎と日本の心」。
同年2月の「都民劇場」会報。「猿若と江戸歌舞伎」。ここでも最後に猿若町と藤浪与兵衛氏のことについて触れています。良子はよく、いい人ほど早く亡くなった、と言っていますが、いつも真っ先にあがるのが、与兵衛さんの早すぎる死のことです。
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