繁俊のノート「見聞き」より②
逍遙の、焼かれた遺文の内容を書き記した繁俊のノートです。
「昭和十二年一月四日山田清作氏と共に熱海に行き、柳田泉氏編述の『逍遙伝』の残部八百枚を、夫人と山田両氏に読んで聞いていただいた。一章よみては説をきいた。六日の朝になって夫人より山田氏に一書を出してこれも読めと言われた。」とあります。そして封筒に書かれた字は、逍遙が亡くなる十日前くらいではないか、それを夜、ハナレで山田氏と読んだことが書いてあります。
次のページには、セン夫人が十七才で実母から呼ばれて神戸福原遊廓に身を沈めることになり、さらに根津大八幡に鞍替えし、三年の年季、とあります。年季が終わった時の借財が六百円、それを夫人と逍遙半分ずつ持ち寄り返した。結婚にあたって、鵜飼氏の養女ということになったことも。
逍遙の遺文には最後に、「これにて予に秘密というものなし」と書かれ、昭和8年2月10日と書かれているとあります。死の2年前になります。繁俊はもうひとつ、箇条書きで「この夫人の件は先生を生涯緊張せしめ鬱憤蓄積主義ならしめ自主独行の人たらしめたのであった。『艱難汝を玉にす』とはまさにこれ 実に尊きものなり 12年1月11日記」と締めくくっています。繁俊が熱海で遺文を読んだのが6日の夜ですから、その5日後です。
そのあと、さらに見開きページに追加で記載があります。よくいろいろな本に孫引きされる、加藤精一氏談のエピソードで、逍遙が客として大八幡楼に通っていたころ、夫人が病気でもすると、コンロをぱたぱたあおいで薬を煎じていたので、「コンロの坪さん」と呼んだという話です。これは、逍遙の遺文にあったことではなく、関連した話として記載しています。
このノートには、他にも色々、直接聞いた談話や、人から聞いた談話が書いてあります。これは十五代目市村羽左衛門から聞いた話として、若い役者が教えを乞うてくるときのマナーがなっていない、ということが書かれています。
同じノートには、戦中のものの値段がびっしり見開きで。おそらく自分で買ったもので、白米、ジャガイモ、玉子、鯛、自転車、南京豆、白砂糖、トマト、石鹸などの値段が。下の段には、「支邦では」として中国でのコーヒーの値段などが書かれています。
このノートは、大正8年からのことが書かれていますが、おそらく、昭和になってからまとめて遡って書いたのではないかと思われます。いずれなにかに書くために心に残ったことを書き留めておくためのものだと思いますが、一冊のノートを長く使って、細かく書いており、これひとつとっても、繁俊が「根気の人」と言われたことが納得できます。
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