いつも「小満津の鰻」
逍遙から繁俊の書簡に、度々登場する「小満津の鰻」。現在、ネットで検索すると、東高円寺にミシュランに載った唯一の鰻店として、この店があることがわかります。お店の歴史は古く、今の店主の祖父(二代目)の時、京橋に店があり、多くの食通や文化人が魅了されていた、とHPにあります。明治、大正、昭和、文学作品や芸能にたびたび取り上げられ、ブームとなり、一世を風靡し、落語「鰻の幇間」、魯山人、「細雪」などにも登場しているそうです。
この鰻を逍遙が好物にしていたので、繁俊はたびたび逍遙の住む熱海にこれを送っています。逍遙はものをもらえばすぐにお礼の便りをくれるので、書簡集によって鰻をどれくらい送ったかがわかり面白いです。
最初の記載は、大正13年2月3日、関東大震災で罹災してからわずか半年後のことです。
「お手紙もお心尽しの品もいただきました 昨御大厄以来お物入り多き折にかういふ御心配まことにお気の毒に存じます 折角の御好意ありがたく頂戴します どうか御母堂(糸女のこと)へもよろしくお伝へを願ひます(後略)」
この封筒の裏に、繁俊が「先生好物の小松のうなぎをお送りせしなり」と注記があるそうです。
次は、大正14年2月20日。
「其後皆様御無事に候や さて思ひよらず好物の品を沢山いただき、まことに有がたく候 併しお物入つづきのところといひ 何かと御多忙中かうしたお心遣ひお気の毒さまに存じ候 昨日午後入手、とりあへずお礼だけ申入候(後略)」
注記に、「河竹から送られた小松の鰻二箱の礼状」とあります。
次は、同年2月26日ですが、これは20日の鰻のこと。
「(前略)此間頂戴の好物、本日までも大事に貯へ、幸ひの冷気のため味かはらず、けつこうに賞翫いたし一同舌福をよろこび候 夥しくいただきしゆえ、其砌幾串かを義理ある某へ割愛いたし深く感謝され候、重ねて御礼申候(後略)」
注記に、「『日記』2月22日に『河竹より小松二箱を送り越す』とある。また25日には『河竹よりの小松を此日にて食し了る』とある」と書いてあります。
大正15年1月30日。
「お手紙ありがたう 内君だんだんおよろしきよし尤も慶賀、さて小満津夥しく頂戴、非常においしく、折柄の来客とて大重宝いたし候 然るところ到来の際、『付札に『坪内様よりお誂』とか何とかありしのみにて、何方より更に分らず、いろいろ噂いたし多分河竹氏ならんと鑑定しつつ舌鼓は打ちながら、明かにはいたしかね小松へ問合せの葉書差出したれど今以て回答なく かたがた御礼申しおくれ候 まことに有りがたく数日にわたりいろいろに調理していただき候 厚く御礼申候 (後略)」
注記に「『差出人不明にて 小満津十六串の送付』され、三十日に『河竹より葉書、過日の小松は同人よりの贈り物と分明す』とある」
昭和2年1月21日。
「思ひかけず例の大好物を夥しくいただき 図らぬ舌福に 昨日今日又明日も喜びを重ね候ものの あんまり沢山にて勿体なく候故 四本だけ露木主人へ頒ち候 どうか将来は下さるにしても 六本で十分に候、それにて三日間いただくといふが腹に候 併し迚も此地にては味ひがたき厚味 くれぐれも御礼申候(後略)」
昭和3年4月2日
「御心づくしの好物夥しく只今頂戴 毎々の儀御礼し尽しがたく候 此地さへ中々の春寒 東京は嘸(さぞ) (後略)」
注記に「『日記』に『河竹より小松を送り越す』とあり、鰻の礼状」。
こうして見てくると、一年に一回、1月か2月に送ることにしているようです。逍遙は、「夥しい」鰻に対してお礼を言いながらも、昭和2年の手紙では、六本で十分、とはっきり数まで指定しています。それにもかかわらず、翌年また夥しく贈られたようです。逍遙はついに、「贈り物をことわる歌」の中で、繁俊の贈り物にも触れることになります。歌は次回に紹介します。
写真は、現在の小満津の鰻(HPより)。ぜひ一度、お邪魔してみたいものです。
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